ペルシャ絨毯産地88【ナイン】|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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イラン中央部、イスファハン州ナイン郡の郡都で、人口は約75,000人。

カビール砂漠の西端、イスファハンからケルマンへと至る幹線上に位置する砂漠の町で、周辺にはカナート(地下水路)が発達しています。

穀物、堅果、羊毛などの農産物の集積地となっており、絨毯、陶器の産地としても有名。

ナインの名はノアの子孫、ナエンに由来すると言われるが如く、古い歴史を有しています。

ゾロアスター時代に城塞や礼拝堂が築かれており、近郊のモハンマディーエには「サルダブ」あるいは「アバー・バーフィー」と呼ばれる地下住居があります。

アラブ人の侵略後、ゾロアスター寺院の上にイランでもっとも古いモスクの一つであるマスジェデ・ジャメが建造され、イル・ハン朝の時代にはミナレットや説教壇が追加されました。

マスジェデ・ジャメ

この頃には既にこの町において機織りが盛んであったと言います。

ナインの人たちはかつてゾロアスター教徒が掘った洞窟の中に機を設置し、ウール製の生地を製作していました。

のちにナインではアバーと呼ばれるアラブ伝来のコートが製作されるようになり、地下住居に付されたアバー・バーフィーの名には「アバー織り」の意味があります。

 

アバーを纏った聖職者とアバー・バーフィー

産業革命以降、安価なヨーロッパ産の機械織生地が出回るようになり、更に20世紀に入るととイランにおいても洋装が普及しはじめ、ナインの繊維産業は衰退してゆきます。

そうした状況を受け、この町においても絨毯製作が始まったのでした。

初期のナイン絨毯

ナインにおける絨毯製作はイスファハンの職人の指導により1920年代に始まったとされます。

機織りに慣れていたナインの職人たちはたちまちにして腕を上げ、緻密な織りの作品を織りあげるようになりました。

ナインが絨毯産地として注目を浴び始めるのは第二次世界大戦の頃からで、当時ナイン産絨毯を競って買い求めたのはテヘランの成金たちであったと言います。

そうした中、のちに「ナイン絨毯の父」と称されるようになる絨毯作家が登場しました。

ファットラー・ハビビアン・ナイニーです。

彼の作品がロンドンにおいて好評を博してから、ナイン絨毯の作風は大きく変わりました。

それまでの暗めの色調はアイボリーを基調とした明るいものとなり、以後ナイン絨毯の代名詞として定着します。

ハビビアンがナイン絨毯の父と呼ばれるのはそのため。

 

ファットラー・ハビビアン・ナイニー(1903~1995年)と作品(イラン国立絨毯博物館蔵)

そうした中、のちに「ナイン絨毯の父」と称されるようになる絨毯作家が登場しました。

ファットラー・ハビビアン・ナイニーです。

彼の作品がロンドンにおいて好評を博してから、ナイン絨毯の作風は大きく変わりました。

それまでの暗めの色調はアイボリーを基調とした明るいものとなり、以後ナイン絨毯の代名詞として定着します。

ハビビアンがナイン絨毯の父と呼ばれるのはそのため。

 

1950年代のナイン絨毯

ナイン絨毯は品質を表す三つのランクに分けられます。

上から順に「チャハールラー」「シシラー」「ノーラー」で、チャハール(4)、シシ(6)、ノー(9)の数字は縦糸の撚りの数。

数字が小さくなればなるほど糸は細くなり、織りは細かくなります。

縦糸には木綿が使用されるのが一般的ですが、近くのイスファハン同様パート・シルクの技法が用いられています。

ナインでは1990年代にノーラーの生産は終了しており、今日出回っているものはイラン中東部のタバスやカシュマールで製作されたコピー品が大半。

これらのコピー品にはナインで使用される天然染料ではなく合成染料が用いられ、またパイルの一部に使われる絹糸の代わりに木綿が使用されるなど、本物のナイン産に比べると品質は大きく劣るので注意が必要です。

ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。

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