ケルマン

ケルマンはイラン中南部ケルマン州の州都です。
ルート砂漠の西端、標高1755メートルの高地に位置し、人口は約60万人。
ケルマンには僅かにゾロアスター教徒が存在しています。

7世紀にイランがイスラム化されると大半のゾロアスター教徒がインドに逃れますが、彼らはイランに留まった教徒たちの子孫。

今日、イラン国内のゾロアスター教徒は2万5,000人ほどと言われます。

この町の歴史はササン朝の時代にまで遡り、アルデシール1世により創建されたとするのが定説。
ケルマンの名はギリシャ人がこの町を呼んだ「カルマ二」に由来するとされます。

1048年、セルジューク朝を興したトゥグリル・ベグの甥カーブルト・ベグの一軍がホラサンから侵攻し、セルジュク朝の地方政権であるケルマン・セルジュク朝を建国しました。

第4第君主トゥラーン・シャー1世はファース地方を勢力下に置き、更に第7代君主アルスラーン・シャー1世の時代にはオマーンを支配し、最盛期を迎えます。

ケルマンは交易都市として大いに栄えますが、内紛により徐々に衰退し、やがてトクメンの侵攻を招いてケルマン・セルジュク朝は1187年に滅亡しました。

その後はモンゴル人のフラグ・ハンが興したイルハン朝に支配されます。

マルコ・ポーロ(1254~1324年)

1271年にこの町を訪れたマルコ・ポーロは『東方見聞録』に「王国は滅ぼされタルタル人の統治者がいる」と記していますが、タルタル人というのはタタール人のことでモンゴル系の人たちのこと。

更にマルコはケルマンについて「トルコ玉を産し馬具やカーテンを生産する」と紹介しています。

サファヴィー朝の時代になると、更なる発展を見たと言われますが、サファヴィー朝の滅亡後は不幸な時代を迎えることになりました。

1794年、カジャール部族連合のアガー・モハンマド  ・ハーン(のちにカジャール朝初代君主アガー・モハンマド  ・シャー)がケルマンを攻撃。

町は破壊され、住民の多くは虐殺されました。

その後もとの町の北西に新たに町が建設されます。

マスジェデ・ジャメ

サファヴィー朝の時代、この町には宮廷直営の絨毯工房が開設され、数々の名品が製作されたと伝えられます。

「花瓶文様絨毯」や「サングスコ絨毯」がその代表格ですが、都から遠く離れたケルマンに宮廷工房が存在したとは考えにくいとして異議を唱える研究者がいるのが実際。

とりわけサングスコ絨毯については「ケルマンに動物文様の伝統はなく、イスファハンもしくはカシャーンで製作されたとするのが自然」と米国ペルシャ美術考古学研究所長であったアーサー・ウブハム・ポープは見解しており、イラン国立絨毯博物館はその産地をタブリーズないしはカシャーンとしています。

サングスコ絨毯(イラン国立絨毯博物館蔵)

ケルマンでは古来「パテ」と呼ばれる刺繍が盛んで、かつてはインドのカシミール地方と並ぶ手織ショールの名産地でした。

しかし産業革命以降、ヨーロッパで安価な機械織ショールが流通するようになると需要が激減。

ショール産業は衰退します。

 

ケルマン・ショールとケルマン絨毯

19世紀末、スルタナバード(現在のアラク)におけるジーグラー商会の成功に触発された米国のイースタン・ラグ社がこの町に絨毯工房を開設。

イスタンブールで活動していたイタリアのネンルコ・カステリー商会、英国のオリエンタル・カーペット・マニュファクチャーズ社(OCM)も進出し、ケルマンにおける絨毯製作は短期間のうちに軌道に乗りました。

その背景には、ショール産業で培った技術があったことは紛れもない事実でしょう。

 

イースタン・ラグ社支配人ハーシェム・ハーン・シャーロキとOCM支配人ジャーン・ティモヤナキ

復興期においてはモフセン・ハーン・シャーロキとアフマド・ハーン・シャーロキという巨匠が現れました。

のちのケルマン絨毯のデザインは、この二人の下絵師の影響が大であったと言えます。

前列左からホセイン・ハーン・シャーロキ、アフマド・ハーン・シャーロキ、、ハサン・ハーン・シャーロキ

1920年代から30年代にかけてはアリー・ケルマニや「ケルマンの絨毯王」とよばれたモハンマド・イブン・ジャーファル(モハンマド・アルジュマンド)らの絨毯作家、アフマド・ハーン・シャーロキの息子であるホセイン・ハーンとハサン・ハーン兄弟らの下絵師が活躍し、数々の名作を生み出しました。

ケルマンはペルシャ絨毯の最高級品を産する町として世界的に有名になり、1937年に日本建築学会が発行した『窓掛と敷物』と題する小冊子にも「一番この『ペルシャ』のもので有名な(Kirman)ものは、其の性質が最もよろしい」と記述されています。

 

モハンマド・イブン・ジャーファル(1893~1968年)と作品(イラン国立絨毯博物館蔵)

しかし第二次世界大戦後の米国市場においてプレイン・タイプの俗に言われる「ケルマン・コーラニ」や「アメリカン・ケルマン」が人気になると、ジュフティを用いた質の劣るものも製作されるようになりました。

ケルマン・コーラニはコーランの表紙を模したデザインで、赤や濃紺、濃緑を基調とした厳格なデザインであるのにのに対し、アメリカン・ケルマンはパステル・カラーを基調とした柔らかで自由な作風が特徴。

 

ケルマン・コーラニとアメリカン・ケルマン

1979年にイラン革命が起こり、米国大使館占拠事件をきっかけに米国との国交が断絶。

ケルマンの絨毯産業は大きなダメージを受けます。

以後生産量は減少し、今日に至っています。

ケルマンでは紡績前に染色する先染めを用いており、色の深さはイラン随一ですが、1930年代からは合成染料が使用されはじめました。

ノットはペルシャ結び、構造はダブル・ウェフトです。

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