著名な絨毯作家|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

  • HOME
  • 著名な絨毯作家|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

アッバス・ゴリー・サーベル(マシャド)

アッバス・ゴリー・サーベル(マシャド)

アッバス・ゴリー・サーベルは1901年、アゼルバイジャンに生まれます。
父親のアボロカゼム・サーベルはアゼルバイジャンに家を持ち羊毛や毛糸を商っていましたが、ソ連軍の侵攻によりすべての資産を失い、サーベル家は着の身着のままアゼルバイジャンを後にせざるを得ませんでした。
いくつかの町を転々とした後、家族はマシャドに辿り着きます。
のちにアッバスは「マシャドに来たばかりの私たちはパンを買うことさえできなかった」と述懐していますが、このとき彼は30歳になっていました。

困窮の極みにある家族のもとに、同じアゼルバイジャンからの避難民が大規模な絨毯工房を経営しており、そこで働く棟梁を探しているという話が舞い込みます。
工房の経営者であるアブドルモハンマド・アモグリに面会した父親は、早速彼の工房で働きはじめることになりました。

時を同じくして宮廷から巨大な絨毯の注文が入ったため織師を増やしたい旨をアモグリから聞いた父親は、学校教育を受けたアッバスを工房へ連れてゆきます。
アッバスはアモグリのもとで絨毯の意匠について学ぶとともに織りの仕事に励み、すぐに1台の織機を任されるようになりました。
数年後、アッバスは独立し、2台の織機をマレク・キャラバンサライに設置。
自身の作品を製作しはじめます。
完成した絨毯はマシャドで評判になり、注文は徐々に増えてゆきました。

1939年、そんな彼に大きな転機が訪れます。
マシャドの地主であり商人としても有名であったハジ・アガー・トゥトゥンチーがアッバスの工房を訪れ、絨毯を注文するとともに投資を申し出ました。
トゥトゥンチーの投資により2台の織機はたちまちのうちに43台に増え、やがて200台へとなります。
工房は殉教者交差点に近い広い場所へと移され、職工の数は350人以上に膨れあがりました。

アッバスが製作する絨毯はアモグリの作品と同等の品質でありながら安価であったため、マシャドの官庁や富豪たちからの注文が殺到し、生産量はアモグリのそれを超え、評価を二分するまでになります。
その後、彼はマシャドのイマーム・レザー廟をはじめとする歴史上の有名人の霊廟のために絨毯を製作しました。

【アッバス・ゴリー・サーベルの作品】を見る。

アハド・アジムザデ・イスファンダリ(タブリーズ)

アハド・アジムザデ・イスファンダリ(タブリーズ)

アハド・アジムザデ・イスファンダリは1957年、タブリーズに生まれました。
7歳になると学校に通い始めますが、父親が亡くなったことで家族の生活は苦しくなり、アハドは退学を余儀なくされます。
彼は日中を絨毯の織師として働き、夜を勉強の時間に当てました。

14歳になる頃にはすでに周辺地域で製作された小さな絨毯を売買していたアハドは、18歳までにタブリーズの絨毯バザールの一角に自らの店を構えるまでになります。
しかし、そんな若い彼には徴兵検査が待ち受けていました。

絨毯に注ぐ並々ならぬ愛情から兵役を免除されたアハドは、世界を相手に絨毯ビジネスを展開することを考え始めます。
そのための調査として彼はドイツに向かいました。

ドイツで世界中の裕福な人々が珍しい絨毯を求めてヨーロッパに来ることを知った彼は、更にジュネーブに行き言葉の壁に突き当たりながらも情報収集に勤しみます。
そうして得た情報を携えて帰国したアハドがとりかかったのは、円形の絨毯の製作でした。

この斬新な作品はたちまちのうちに人気となり、イランの絨毯界に革新をもたらしました。
やがて彼はタブリーズに二つの絨毯工房を開設して300人の織師を雇い、その後、イスファハンにも工房を構えます。

アハドは再びヨーロッパへと向かい、どの国でどの色柄やサイズが好まれるかを調査。
帰国後、調査した国に合った絨毯の製作を開始するとともに、首都テヘランに店舗と倉庫とを購入し、海外との取引の拠点にしました。
こうした活動による彼の名声は広く知れ渡り、2001年にはイギリスで手織絨毯部門におけるインターナショナル・ゴールデン・トロフィーを授与されます。

それから間もなくしてテヘラン市内にイランでも最大規模のペルシャ絨毯展示場を開設したアハドは、ニューヨークで絨毯業界でもっとも成功したトレーダーとしてプラチナ賞のトロフィーを授与されました。

【アハド・アジムザデ・イスファンダリの作品】を見る。

アブドラヒーム・シュレシ(イスファハン)

アブドルモハンマド・アモグリ(マシャド)

アフマド・エマド(タブリーズ)

アフマド・エマド(タブリーズ)

アフマド・エマドは1908年、タブリーズに生まれました。
彼は自宅で小さな絨毯を織り始め、やがてタブリーズのムスタザルフェ芸術学校に入学。
細密画と装飾工芸を学んだ彼は、ミール・モスールの作品に影響を受けます。

その後、ホセイン・ターヘルザデ・ベフザードの招きでテヘランに行き、サーダバード宮殿に敷く絨毯の製作に参加。
タブリーズでそのいくつかの製作にあたりました。

その後イースタン・ラグ社などの外国企業と取引していましたが、やがて経営は傾き、アフマドの所有する大規模な絨毯工房は閉鎖されるに至ったといいます。
彼は2002年、タブリーズで没しました。

アフマドの作品は剣を想像させるシャープなアラベスク文様と、深みのある赤色に特徴があります。
銘は織り込まれていませんが、それらの特徴から容易に判別することができます。

【アフマド・エマドの作品】を見る。

アリー・ケルマニ(ケルマン)

アリー・ケルマニ(ケルマン)






ゴラムアリー・サフダルザデ・ハギーギ(イスファハン)

サデク・セーラフィアン(イスファハン)

サデク・セーラフィアン(イスファハン)

サデク・セーラフィアンは1922年、レザー・セーラフィアンの三男としてイスファハンに生まれました。
高等教育を終えた後レザーの協力を得て、17歳で初めて絨毯製作に取り組んだといいます。
以後、絨毯作家としての道を歩み続け、数々の名作を世に送り出してきました。

サデクは画才にも優れ、代表作である「べへシュテ・セーラフィアン」(セーラフィアンの楽園)は彼がホセイン・モッサバル・アルモルキとともにデザインしたもの。
他にも「ロゾ・シャクーフェ」(バラとブロッサム)、「ゴロ・パルバーネ」(花と蝶)など、自らが考案したとされる写実的でユニークな意匠の作品を残しています。

サデクは2005年に没しますが、その意匠は息子のキャリーム、アミール・ナセル、マフムーディ、モハンマド・メヒディによって受け継がれています。
彼は銘についてもセーラフィアン工房の銘に自身のフルネームを英文字で加えた独自のものを使用していましたが、息子たちもそれに倣ったものを使用しています。

【サデク・セーラフィアンの作品】を見る。

ハサン・ヘクマドネジャード(イスファハン)

ファットラー・ハビビアン・ナイニー(ナイン)

フェイゾッラー・サフダルザデ・ハギーギ(イスファハン)

ムスタファー・サッラフ・マムリ(イスファハン)

ムスタファー・サッラフ・マムリ(イスファハン)

ムスタファー・サッラフ・マムリは1908年、イスファハンに生まれました。
サッラフの姓が示すとおり元は金融業者で、セーラフィアンらとともにパフラヴィー朝末期のイスファハンにおいて、もっとも有名で高い評価を受けていた絨毯作家の一人です。
作品はオーソドックスなメダリオン・コーナー・デザインが中心ですが、特筆すべきはその色の美しさ。
とりわけ初期の作品によく見られる澄んだ青色や赤色は、イスファハン随一といっても過言ではないでしょう。
晩年の作品にはカーキ色やベージュ色など、アースカラーを多用した落ち着きある色調のものが多くあります。
1977年没。

【ムスタファー・サッラフ・マムリの作品】を見る。

モジュタバ・セーラフィアン(イスファハン)

モジュタバ・セーラフィアン(イスファハン)

モジュタバ・セーラフィアンは1946年、モハンマド・セーラフィアンの長男としてイスファハンに生まれました。
祖父であるレザー・セーラフィアンのには24人の孫がいましたが、モジュタバはレザーの初孫であり、幼少期から祖父や父の背を見て育ちました。

彼は高等教育を受けつつ、16歳で絨毯作家としての活動を始めたといわれます。
イラン国立大学を卒業後、英国ケンブリッジ大学に1年間語学留学。
家族の求めに応じて帰国してからは本格的に製作活動に入りました。

アフマド・アルチャングやアクバル・ミナイアンらが遺した未完成の下絵を完成させ、それらをもとに極めて質の高い作品を製作していましたが、最近ではもっぱら一族が製作した絨毯の鑑定に勤しんでいるようです。

なお、モジュタバをはじめバーゲル、メヒディらモハンマドの息子たちの作品には、父親に倣い彼らのフルネームが織り込まれています。

【モジュタバ・セーラフィアンの作品】を見る。

モハンマド・アルジュマンド・ケルマニ(ケルマン)

モハンマド・イブラヒム・マフマルバフ(マシャド)

モハンマド・イブラヒム・マフマルバフ(マシャド)

生没年不詳。
モハンマド・イブラヒム・マフマルバフは、20世紀前半に活躍したマシャドの絨毯商兼絨毯作家です。

彼はマシャドの自宅の隣に61台の織機を置いた大規模な工房を。
マシャドの別の場所とトルカベにそれぞれ4台の織機を置いた小さな工房を持っていました。
主に政府関係者のために多くの絨毯を製作しており、作品には「アマレ・マフマルバフ」(マフマルバフの作品)の銘が織り込まれています。

モハンマドは染色も自らで行い、天然染料によるその色の美しさは伝説にさえなっていますが、晩年は認知症を患い、そのレシピを明かすことなく没しました。

モハンマド・クーバンファル(タブリーズ)

モハンマド・ジャムシードプール(クム)

モハンマド・ジャムシードプール(クム)

「モハンマド ・ジャムシディ」として知られるモハンマド ・ジャムシードプールは1947年、クムで生まれました。
12歳から絨毯作家となるべく修行を始め、約10年後に独立。
1975年に結婚し、4人の娘と2人の息子を授かりました。

彼の作品はペルシャ絨毯の伝統的意匠を取り入れつつも、独創的なデザインが特徴で、一般にジャムシディ・デザインとよばれています。
とりわけフィールドいっぱいに配したカルトゥーシュに細やかな花文様を散りばめたデザインは「ゴルリズ・フレーム」として有名。

彼の作品に対するこだわりは色糸にも及び、天然染料によって染めあげたイラン国産の最高級の絹糸は、高い評価を得ています。

モハンマド・セーラフィアン(イスファハン)

モハンマド・セーラフィアン(イスファハン)

セーラフィアン工房の現在のグランドマスターであるモハンマド・セーラフィアンは1921年、レザー・セーラフィアンの次男としてイスファハンに生まれました。
父や兄モハンマド・アリーとともに工房開設当初から絨毯製作に携わりました。

絵画的デザインを得意としたホセイン・モッサバル・アルモルキに依頼した「ゴロ・ボルボル」(花と小夜鳴鳥)や「シェカールガー」(狩猟)などの名作を残しており、テヘランの絨毯博物館やニアバラン宮殿には彼の作品が収められています。
また、モハンマドが国際連合に寄贈したサーディーの詩を織り込んだ25平米の大作が、ニューヨークの国際連合本部ビルに掛けられています。

晩年の作品には最上部に彼のフルネームが織り込まれ、巷に溢れる偽物への対応策がとられるようになりました。
最近のモハンマドは慈善活動にも積極的で、1000人の学生を擁するモハンマド・セーラフィアン・カレッジを設立した他、「慈悲深き大学建設者会議」の議長として、イスファハン大学の新学部設立にも関わっています。

【モハンマド・セーラフィアンの作品】を見る。

レザー・セーラフィアン(イスファハン)

レザー・セーラフィアン(イスファハン)

レザー・セーラフィアンは1881年、イスファハンに生まれました。
セーラフィアンは金融業者を意味する姓で、もともと金融業者で成功していたレザーが絨毯作家としての道を歩み始めるのは、全くの偶然からでした。
自宅にあった幾枚かの絨毯を買替える際、満足できる品が見つからなかったことから、彼は自身で絨毯を製作することを思い立ちます。
借金を残したまま亡くなった絨毯職人の家族から製作途中の絨毯を引取り、それを仕上げたのが彼の最初の作品になりました。
1939年のことです。

続いてレザーは、一貫して自らプロデュースした絨毯を製作。
メヒディ・ハギーギやアブドッラヒーム・シュレシらのデザインも手がけたアフマド・アルチャングに意匠図の作成を依頼し、天然染料のみによって染めあげられた最高級の素材と緻密な結びによって、類まれな作品を完成させます。

渦巻き状のイスリム(蔓草)が優雅で躍動感あふれるその作品は、絨毯作家としての彼の存在を確固たるものにしました。
初期の作品には銘が入れられていませんでしたが、やがて下方のキリムの部分に「バフテ(織)・イラン・イスファハン・セーラフィアン」と記した銘がイラン国旗とともに織り込まれるようになり、セーラフィアン・ブランドを確立することになります。

レザーには上からモハンマド・アリー、モハンマド、サデク、アフマド、アリー、ホセイン、モハンマド・ハサンの7人の息子たちがいました。
セーラフィアン・ブランドのもとでそれぞれが独自に絨毯製作を行いました。
レザーは1975年、イスファハンで没しました。

【レザー・セーラフィアンの作品】を見る。

お問い合わせ

ご質問・ご相談などがございましたら、
お電話やメールフォームよりお受けしています。
お気軽にお問い合わせください。

TEL
03-3304-0020