ペルシャ絨毯産地10【タブリーズ】|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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イラン北西部、東アゼルバイジャン州の州都で人口は約140万人。

サハンド山の北麓、標高1350mに位置する緑豊かなこの町は、テヘラン、マシャド、イスファハンに次ぐイラン第4の都市で、住民の多くはアゼルバイジャン語を母語とするアゼリー(アゼルバイジャン人)です。

タブリーズ周辺は肥沃な農業地帯であり、農産物加工のほか,絨毯製造、皮革加工、製靴などの産業が盛ん。

町の歴史はササン朝の時代にまで遡り、タブリーズの名は、ササン朝の傘下にあったアルメニアの王ティリダテス3世(パルティア王のティリダテス3世とは別人物)により、297年に「タリウス」と名付けられたことに由来すると言われます。

その後、アラブ人の侵攻により町は荒廃しますが、『千夜一夜物語』で有名なアッバス朝第5代君主(カリフ)ハールーン・アッラシードの妻の一人、ゾバイデが再建。

1256年にモンゴル人のフラグ・ハンがイランを制圧するとイルハン朝の都となりました。

イルハン朝の時代にこの町を訪れたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で「タブリーズは大都会で金糸、銀糸で織った高価な布を産し、バグダッド、インドから商品が運びこまれる」と記しています。

イルハン朝の遺跡「アルゲ・タブリーズ」

続く黒羊朝、白羊朝、サファヴィー朝でも都とされますが、シルクロードの要衝でありトルコ国境にも近いタブリーズはオスマン朝の侵攻を受け、1514年のチャルディランの戦い後は、暫く首都であるこの町がオスマン朝に占領されるという事態に至ります。

タハマスプ1世の時代、1548年に行われたカズビンへの遷都の背景にはこうした理由があったのでした。

サファヴィー朝に復してからは交易都市として大いに栄えますが、その後も二度に渡りオスマン朝による占領を経験します。

イラン立憲革命(タブリーズ)

カジャール朝の時代には第二次ペルシャ・ロシア戦争によるトルコマンチャイ条約の結果、コーカサス地方とともにロシアに割譲され、1828年にイランに復帰するものの、20世紀に入るとイラン立憲革命の震源地となり、また第一次世界大戦時にはオスマン朝やロシアに占領されるなどしました。

第二次世界大戦直後の1945年12月、ソ連の支援を受けたアゼルバイジャン民主党がこの町にアゼルバイジャン国民政府を樹立。

民族自決を唱え独立国家を宣言します。

しかしソ連が石油利権と引き換えに離反し、更にパフラヴィー朝が強硬策に転じ軍を進めたことにより、アゼルバイジャン国民政府は一年後に崩壊しました。

アゼルバイジャン国民政府

タブリーズではサファヴィー朝期以前に絨毯製作が行われていたと言われ「狩猟文様絨毯」や「チェルシー絨毯」など、現存する16世紀のペルシャ絨毯の中にもこの町で製作されたと推定されるいくつかの作品があります。

しかし、それらはトルコ結びではなくペルシャ結びを用いて製作されており、そのためタブリーズ説に疑問を抱く研究者もいます。

16世紀のタブリーズ?絨毯(イスラム・アート美術館蔵)

サファヴィー朝の滅亡とともに都市部における絨毯産業は途絶しますが、19世紀半ばにイランで微粒子病が発生してそれまでの主要な輸出品であった生糸の生産が滞り、またヨーロッパで絨毯ブームが起こったことを受け、タブリーズの商人たちの中には絨毯を輸出を始める者が現れます。

イラン国内に残る古い絨毯を買い集めてはトルコ北東部のトラブゾンまで陸路を運び、トラブゾンから船でイスタンブールに送っていました。

当時のイスタンブールは欧米からバイヤーが集まる中東一の国際貿易都市で、まさしく「東西の架け橋」でした。

タブリーズの絨毯商たち(19世紀末)

やがて古い絨毯が品薄になったことにより、イランに進出した英国企業ジーグラー商会がスルタナバードに工房を構えて絨毯製作を開始。

それに触発されたタブリーズ商人は周辺のマランド、ホイやヘリズのみならず、遠く離れたマシャドやケルマンにまで出向いて絨毯工房を開設します。

  

アブドッラー・ガリーチーとミールザ・アリー・アクバル・ガリーチー

そうしたタブリーズ商人の中でも「ハジ・ジャリリ」として知られるモハンマド・サデク・ジャリリや「20世紀最高の絨毯工房」と言われるアモグリ工房を開いたアブドル・モハンマドとアリー・ハーン兄弟の父、モハンマド・カフネモイはとりわけ有名。

また、アブドッラー・ガリーチーと息子のミールザ・アリー・アクバル・ガリーチーは1892年に開催された初の見本市に作品を出展し、好評を得たと言われます。

当時の絨毯作家は生糸商から転向した者が多かったため、この時期のタブリーズではシルク絨毯も多く製作されていました。

19世紀末のタブリーズ産シルク絨毯(モハンマド・サデク・ジャリリ作)

しかし、イラン経済の中心であったタブリーズも第一次世界大戦中のロシア軍による占領と、中央集権制を敷いたパフラヴィー朝の誕生とにより凋落。

絨毯取引の中心は首都テヘランに移りました。

第二次世界大戦中から終戦直後にかけてはソ連による占領、アゼルバイジャン国民政府を巡る混乱により更に衰退します。

しかし、戦後ヨーロッパが復興するにつれタブリーズ絨毯の需要は高まり、またモハンマド・レザー・シャーによる振興政策もあって生産量は増加してゆきました。

アッバス・アリー・アラバフやジャーファル・タギーザデ、ラッサム・アラブザデ、タバタバイらの絨毯作家が登場し、個性的な作品で知られるようになります。

 

アッバス・アリー・アラバフ(1927~2005年)と作品

タブリーズ絨毯はデザインの多彩さで知られていますが、とりわけ「リズ・マヒ」と呼ばれるヘラティ文様は有名。

ヘラティの名はかつてイランのホラサン地方に属する町であったヘラート(現在はアフガニスタン領)に由来したもので、ホラサンの伝統柄であったこの文様がイラン北西部や南西部に伝わったのは、ナーディル ・シャーの東征によるものとするのが定説です。

 

1990年頃からは「ナグシェ」と呼ばれるヨーロッパ風のゴージャスかつエレガントなデザインの作品や、絵画や写真を忠実に再現した「タブロー」が製作され始めました。

タブリーズ絨毯はすべてトルコ結び、ダブル・ウェフトで製作されています。

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