パフラヴィー朝の振興政策

1921年、ペルシャ・コサック旅団長であったレザー・ハーン大佐がバクチアリ部族連合の力を借りてテヘランを包囲。

このクーデターにより首相兼国軍最高司令官に就任した彼は、イランにおける英国の治外法権を撤廃して国民の信頼を得ます。

そして1925年、治療を理由にアフマド・シャーをフランスに渡航させると議会を動かしカジャール朝を廃止。

自ら「レザー・シャー」を名乗って皇帝の座に就き、パーレヴィー朝が成立しました。

レザー・シャー(1878~1944年)

レザー・シャーは司法・財政・軍事・教育の各部門における制度改革や女性解放を推進して国の近代化を図るとともに、1935年にはペルシャ人の地を意味する「イラン」を正式な国名として定めます。

この年イラン絨毯公社(ICC)が設立され、それまでイランで操業していたジーグラー商会、イースタン・ラグ社、オリエンタル・カーペット・マニュファクチュアズ社(OCM)など外国企業の工場を国有化し、翌年から操業を開始しました。

絨毯産業を国の基幹産業の一つと捉えていたレザー・シャーは、世界恐慌の影響により撤退を始めた外国企業に雇われていた絨毯職人の雇用維持、更には外国人によって歪められたペルシャ絨毯のアイデンティティの復活を目指したのでした。

イラン絨毯公社本部(テヘラン)

やがて第二次世界大戦が勃発すると枢軸国寄りであったレザー・シャーは英ソの圧力を受けて退位。

息子のモハンマド・レザーが第二代皇帝として即位しました。

モハンマド ・レザー・シャーの治世下においても絨毯産業への振興政策は継続されますが、この大戦でもイランの絨毯産業は大きな打撃を受けます。

とりわけヨーロッパで人気のあったカシャン産やマシャド産の品質が低下するのはこれによるものでした。

モハンマド・レザー・シャー(1919~1980年)とファラ皇后(1938年~)

第二次世界大戦が終結して暫くすると、復興景気に沸くドイツには、イラン人絨毯商が大勢進出。

1960年代には自由貿易都市ハンブルグに住むイラン人絨毯商の数は2,000人に達したと言います。

エルベ河口に位置するハンブルグは中世以来ハンザ同盟の中心となった町。

自由貿易港としての伝統をいまに伝えており、保税地区内にある絨毯については期間内であれば免税となるため、貿易の中継地としては最適でした。

こうしてハンブルグは19世紀以来のロンドンに代わり、ヨーロッパはもとより世界におけるペルシャ絨毯取引の一大拠点となるに至ったのです。

ハンブルグの絨毯橋

モハンマド・レザー・シャーの時代の傑出した絨毯作家としてはタブリーズのアリー・ハサン・アラバフ、イスファハンのレザー・セーラフィアンやハサン・ヘクマトネジャード、ナインのファットラー・ハビビアン、マシャドのアリーゴリー・サーベルら。下絵師ではアラク(のちにイスファハン)のイーサー・バハードリーやイスファハンのアフマド・アルチャング、タブリーズ(のちにテヘラン)のラッサム・アラブザデらがあげられるでしょう。

ヘクマトネジャードはモハンマド・レザー・シャー御用達の工房として有名でした。

 

ハサン・ヘクマトネジャード(1930年~)と作品(イラン国立絨毯博物館蔵)

1973年10月の第四次中東戦争勃発を機にペルシャ湾岸6カ国が原油の減産と大幅な値上げを行い、第一次オイル・ショックが起こります。

これにより産油国であるイランでは富裕層が拡大。

イランの国内市場においてはイラン人に人気のあるカシャーン絨毯の需要が高まり、値段が高騰しました。

これを受け、イラン南部のアルダカンやヤズド、北東部のカシュマールにおいてカシャーン絨毯のコピー品が製作され始めます。

 

カシャーン産とアルデカン産

1976年には首都テヘランに国立絨毯博物館が建設されます。

博物館の外観はファラ皇后が絨毯の織機をイメージしてデザインし、収蔵品は絨毯好きで知られた皇后のコレクションにカジャール朝の元王族の寄贈品を加えたものが基盤になりました。

海外では1975年にワシントンDCのメトロポリタン美術館で開催された展示会をきっかけに、それまでは見向きもされなかったギャッベが注目されはじめます。

国立絨毯博物館(テヘラン)

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