バブル景気に沸く日本とペルシャ絨毯

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1979年、クムで起こった反政府暴動はイラン全土に広がりイラン革命に発展しました。

モハンマド ・レザー・シャーはエジプトに亡命してパーレヴィー朝が崩壊。

パリから帰国したルーホッラー・ホメイニを最高指導者とし、イランはイスラム国家として共和制に移行します。

米国がモハンマド・レザー・シャーの入国を認めたことからテヘランでは米国大使館占拠事件が発生。

米国はイランと断交し、これにより米国を主要な輸出先としていたケルマンなどの絨毯産地は大きな打撃を受けました。

 

イラン革命と米国大使館占拠事件

こうした革命による混乱を好機と捉えた隣国イラクのサダム・フセイン大統領は、シャットル・アラブ川のブビヤン、ワルバ両島を占領します。

これを契機としてイラン・イラク戦争が勃発し、湾岸諸国への革命輸出を恐れる米国などがイラクを支援して8年間にも及ぶ泥沼のような戦争に至るのでした。

イラン・イラク戦争におけるイラン軍義勇兵

そんなイラン・イラク戦争たけなわの1985年(昭和60年)9月、ニューヨークのプラザ・ホテルで開催された先進5か国蔵相会議の結果、急速な円高が進み、円は240円代から僅か2年で120円代にまで高騰。

円高で競争力の落ちた国内の輸出産業や製造業の救済措置として、たび重なる公定歩合引き下げが行われ、また金融市場では為替差損の心配のない国内市場に目が向けられることになりました。

これにより日本国内の株価・地価が上昇、さらに資産の増大が含み益を増大させ、担保価値や資産価値が上昇することで金融機関による融資が膨らみ、バブル景気が起こります。

ゴッホ作『ひまわり』(損保ジャパン日本興亜美術館蔵)

企業はキャピタルゲイン(所有している資産を売却することで得られる売買差益)を上げることに奔走した結果、一般人をも巻き込んだ「財テク」がブームになり、その対象は株式や土地にとどまらず、高級外車や絵画などの美術品にまで及びました。

1987年、安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)がゴッホの『ひまわり』を史上最高額の約53億円で購入。

翌年には老舗百貨店の三越がピカソの『軽業師と若い道化師』を43億円、更に89年にはリゾート開発の日本オートポリスがピカソの『ピエレットの婚礼』を71億円で購入します。

そうした状況の中、ペルシャ絨毯も投機対象の一つとして定着するに至ったのです。

 

『ペルシア五千年美術絨毯』と『燃える秋』

わが国では1970年代半ばに三越がパフラヴィー朝成立50周年を記念し、三井物産とイラン絨毯公社協力のもと1,000枚のペルシャ絨毯を直輸入。

1977年に『ペルシア五千年美術絨毯展』を開催するとともに販促映画『燃える秋』を10億円の予算をかけて東宝と合作したほか、テヘラン支店を開設して(イラン革命に伴い閉鎖)本格的にペルシャ絨毯の販売に乗り出していました。

 「バスに乗り遅れるな」と各百貨店は一斉にペルシャ絨毯の販売を始め、イランやトルコからは一攫千金を目論む絨毯商が来日します。

日本人が好むシルク絨毯を製作していたクムでは、日本からのバイヤーの注文により作品にやたらと銘が織り込まれるようになり、またクムから遠く離れたイラン北西部のザンジャンやマラゲでクム産を模したシルク絨毯が製作されるようになりました。

 

ザンジャン産とマラゲ産

当時、わが国とイランの間にはビザ相互免除協定があり、またバブル景気の到来がイラン・イラク戦争の停戦と重なったため、実に4万人以上のイラン人が「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見て来日。

上野公園や代々木公園には彼らのコミュニティができあがり、週末には情報を求めて多くのイラン人が集まりました。

彼らの大半は建設業の職に就いていましたが、そのうちまったくの門外漢から絨毯商に転向する者が現れはじめます。

とにかく高ければ高いほど物が売れた時代。

何ヶ月も売れ残っていた商品の値札に0を足して10倍にしてみたところ、たちまち売れたなど、にわかに信じがたい話もあるほどで、ペルシャ絨毯に馴染みのない日本人が相手ゆえ、素人でも商品を調達できさえすれば口先三寸で大きな利益を得ることができたのです。

公園に集まるイラン人たち

やがてバブルは崩壊し日本は先の見えない不況の時代を迎えますが、楽をして稼ぐことに慣れてしまった者たちの意識はそうそう変わるはずがなく、バブル期の商法はそのまま継続され今日に至っていると言えるでしょう。

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