日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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この頃カジャール朝下のペルシャに向けて、日本から使節団が派遣されます。

駐ロシア公使であった榎本武揚がウィーン万博の帰りにロシアを訪れていたナセル・ウッディン・シャーに謁見したことに端を発し、外務卿(大臣)井上馨の命により外務省御用掛であった吉田正春を正使とする使節団が編成されました。

吉田は土佐藩参政であった吉田東洋の子。

東洋が土佐勤皇党により暗殺された後は従兄の後藤象二郎(のちの逓信大臣、農商務大臣)に育てられたと言います。

使節団には副使として陸軍参謀本部から古川宣譽工兵大尉が、民間からは大倉組副社長の横山孫一郎、同社社員の土田政次郎ほか4名の商人が加わりました。

軍艦「比叡」

一行は軍艦「比叡」に同乗して横浜を出航。

このとき比叡艦長であった伊東祐亨中佐は日清戦争で連合艦隊司令長官として清国の北洋艦隊を破った、のちの元帥海軍大将です。

比叡は東南アジア、インドを経由して1880年(明治13年)7月、イラン南西部のブーシェフルに入港。

上陸した使節団の一行は、現地で料理人を雇い、真夏の砂漠地帯を駱駝に乗ってシラーズ、イスファハンを経由して進み、9月にカジャール朝の首都テヘランに到着しました。

しかし吉田の官位が低かったため、シャーへの謁見はなかなか実現せず、一行はテヘランで足止めを食らいます。

ようやく謁見が叶った使節団はナセル・ウッディン・シャーから通商の許可を得るとともに明治天皇宛の国書を賜ったのでした。

ナセル・ウッディン・シャーから明治天皇に宛てた国書(外務省外交史料館蔵)

のちに吉田と古川は、ともにこのとき体験を著します。

古川の著書『波斯紀行』は吉田の著書に先駆けて1891年(明治24年)に出版されました。

この書籍の「事情之部 貿易物産」に毧氈(じゅうせん)すなわち絨毯について……此國ノ毧氈ハ尤モ著名ニシテ其染色久シキニ耐エ其組織緻密ニシテ頗ル雅致アリ歐洲人甚タ之ヲ愛ス是レエズド、ケルマン及クルジスタン地方ニ於テ製造スル者ナリ此外駱駝ノ毛ヲ糊シタル厚裀席アリ人家必ス此物及毧氈ヲ併セ敷ク……の記述があります。

短かい一文ながら、ペルシャ絨毯としての概要を解説したものでは、わが国において初のものであろうと思われます。

ただし、この書籍は出版元が参謀本部であり、なおかつ非売品であったことから大衆が目にする機会はほとんどありませんでした。

波斯紀行(フルーリア蔵)

ここで古川宣譽という人物について触れておきましょう。

古川は1849年(嘉永2年)江戸に生まれ、1866年(慶応2年)幕府の御持小筒組に出仕して差図役並(少尉)にまで昇りました。

戊辰戦争では江戸開城に抗して木更津に脱した福田八郎左衛門率いる撤兵隊(さっぺいたい=仏軍に倣った洋式歩兵隊)に従い木更津に脱出。

江原鋳三郎(のちの素六で麻布学園の創設者、国会議員)率いる第一大隊に属して船橋の戦いに参加します。

一説によれば大隊が海神で官軍の挟み撃ちに遭ったとき、江原を絶対絶命の窮地から救ったのが古川であっとのこと。

撤兵隊

維新後、古川は恩赦により出獄した江原が設立に関わった沼津兵学校に学び、1873年(明治6年)、陸軍少尉に任官しました。

1875年から4年間の清国駐在を経た後、古川は吉田正春使節団の副使としてペルシャ・トルコに派遣されます。

帰国後、古川は幼年学校長、工兵会議長等を歴任し、日清戦争では第二軍工兵部長兼兵站監、日露戦争では第四軍兵站監を務め、陸軍中将にまで昇りました。

1930年代に榎本健一とともに「エノケン・ロッパ」とよばれ一世を風靡した昭和の名喜劇役者、古川ロッパは宣譽の孫にあたります。

古川宣譽(1849~1921年)

なお、吉田正春の著書である『回彊探検 波斯之旅』は1894年(明治27年)、当時国内最大の出版社であった博文館から出版されました。

この書籍にも絨氈(絨毯)について記された箇所はあるものの、詳しくは触れられていません。

イスパハン府市街中央ノ廣場(『波斯紀行』より)

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