2018/10/15
イスファハンはイラン中央部、イスファハン州の州都で人口約160万人。
イラン第二の人口を有し「イランの真珠」とも讃えられるこの町は、イラン有数の工業都市として、また中東随一の観光都市として有名です。
ザグロス山脈東麓、標高 1590mの高原地帯に位置し、南北、東西を結ぶ幹線が交わる要衝として、古くから栄えてきました。
イスファハンの歴史はアケメネス朝の時代、ユダヤ人がこの地に町を築いたのが始まり。
ササン朝期には町の周辺に軍の駐屯地や捕虜の収容所が置かれました。
イスファハンの名は軍隊を意味する「セパーハン」「アスパハン」に由来し、7世紀に町を征服したアラブ人によって定着したと言われます。
マリク・シャー1世(1055~1092年)
1072年にセルジュク朝の第3代スルタンとなったマリク・シャー1世が、宰相ニザーム・アルムルクの進言に基づきニシャープールからイスファハンに遷都。
これによりイスファハンは最初の繁栄期を迎えます。
町は整備され、モスクやマドラサ(神学校)、キャラバン・サライ(隊商宿)が建設されました。
いまも残るイスファハンで最も高い建造物であるミナーレ・マスジェデ・アリーは、マリク・シャーが狩りの最中に誤って殺してしまった子供の慰霊のために建造したものと伝えられます。
ミナーレ・マスジェデ・アリー
セルジュク朝の滅亡後は停滞期に陥りますが、1597年にサファヴィー朝第5代皇帝アッバス1世がカズビンからこの町に遷都を実施。
イスファハンは第二の繁栄を迎えます。
町は大規模な都市計画に基づいて整備され、壮麗なモスクや宮殿、バザールや新市街が建設されました。
人口は50万人に達し、その繁栄ぶりは「イスファハンは世界の半分」と讃えられるほどであったと言います。
イスファハンの大バザール
しかし、1722年にミール・マフムード率いるアフガン軍がこの町に侵攻。
イスファハンは陥落し、サファヴィー朝は事実上滅亡しました。
サファヴィー朝の滅亡後、住民はイラクやインドに移住し、人口は5万人にまで減少。
カジャール朝の時代になるとバクチアリ部族連合のもとで復興が始まり、続くパフラヴィー朝の時代には工業と観光産業が集中的に振興され、見事復興を遂げました。
ジャン・シャルダン(1643~1713年)
サファヴィー朝の時代には宮廷直営あるいは宮廷御用達の絨毯工房が多数存在していたとされ、17世紀後半にイスファハンを訪れたフランスの商人ジャン・シャルダンの旅行記にもこの町で絨毯製作が行われていたことが記されています。
しかしサファヴィー朝の滅亡とともにそれらの工房は廃業に追い込まれ、イスファハンにおける絨毯産業は途絶。
それが再開されるのは20世紀初頭になってからのことです。
アフマド・アジャミの作品(イラン国立絨毯博物館蔵)
復興期にはアフマド・アジャミ(アフマド・カーシとも)ら、カシャーンからやってきた絨毯作家や職人の指導を受けたものと考えられますが、やがてこの町出身の絨毯作家アブドラヒム・シュレシや下絵師のミールザ・アガー・イマーミといった名匠が登場し、イスファハンにおける絨毯産業を牽引しました。
ミールザ・アガー・イマーミ(1881~1955年)
縦糸に絹を用いた緻密な織りの作品が製作されるようになり、20世紀半ばにはケルマンやカシャーンに変わるペルシャ絨毯の最高級品を産出する町として有名になります。
サッラフ・マムリの作品
モハンマド ・レザー・シャーの時代にはレザー・セーラフィアン、サッラフ・マムリ、ハサン・ヘクマトネジャードらの絨毯作家やイーサー・バハードリー、アフマド・アルチャング、ジャヴァッド・ロスタム・シラーズィーらの下絵師が現れ、復興後の最盛期を迎えました。
イーサー・バハードリー(1905~1986年)とジャヴァッド・ロスタム・シラーズィー(1919~2005年)
しかし、需要の高まりが品質の低下を招くのは世の常で、イスファハンにおいても「ジュフティ」と呼ばれる誤魔化しのテクニックが蔓延するようになります。
また無銘の作品に有名工房の偽サインを付け加えることも頻繁に行われるようになりました。
現代においてもイスファハンはペルシャ絨毯の最高級品を産する町としての地位は保っているものの、品質にはバラつきがあることを知っておく必要があるでしょう。