ペルシャ絨毯産地96【ヤズド】|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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イラン中央部、ヤズド州の州都で人口約50万人。

カビール砂漠とルート砂漠が交わる荒れた高地に位置し「カビールの橋」と呼ばれるこの町は、古来ゾロアスター教の中心地として、また絹織物や陶器などの手工芸品の産地として知られてきました。

乾燥した砂漠地帯にあるこの町の周辺には世界最大のカナート(地下水路)が巡らされており、また歴史地区に残る建物にはバード・ギールと呼ばれる換気用の大きな塔が設けられています。

これらは2016年から2017年にかけて、ユネスコの世界遺産に登録されました。

ヤズドの歴史は3,000年前にまで遡り、メディア王国の時代には「ヤスティス」「イッサティス」と呼ばれていました。

ササン朝の時代、第14代君主であったヤズデギルド1世(在位:399420年)がネハーバンドの戦いの後この町に立寄ったことからヤズドと呼ばれるようになったと言います。

その後、アラブ人の侵攻によりイランはイスラム化しますが、それを嫌うゾロアスター教徒は辺境の砂漠の町であるヤズドに逃がれて来て、以降この地に定住しました。

第3代正統カリフであったウスマーンの時代、バヌー・タミーム族がこの地を統治し、11世紀に入るとセルジュク朝の地方政権であったカークイエ朝が支配。

町は最初の繁栄期を迎えました。

カークイエ朝のガルシャースプ・イブン・アリー・イブン・ファラームルズがカトワーンの戦いで戦死すると、ルクン・アッディーン・サーム・イブン・ランガルがアタベく(摂政)となって、ヤズド・アタベク朝が成立。

しかし13世紀に興ったイルハン朝に滅ぼされます。

ムザッファル朝期の貨幣

イルハン朝のアルグンは13世紀のモンゴルの侵攻後ホラサンから逃がれてきたアラブ人、シャラーフ・ウッディーン・ムザッファルをヤズドに近いメイボドの代官に任命し、その子ムバーリズ・ウッディーン・モハンマドは1318年、イルハン朝の第9代君主アブー・サイードに任じられてヤズドの総督に就任。

ムバーリズはアブー・サイードの死後1336年にムザッファル朝を興し、1353年にシラーズに移るまでヤズドを首都としました。

1392年ティムール朝の時代に入るとヤズドは最盛期を迎え、新しい城壁やターキーエと呼ばれる複合施設が建造され、町は整備されました。

サファヴィー朝、カジャール朝期には宮廷の直轄地となりますが、バーブ教徒の反乱、立憲革命など混乱の渦に巻き込まれました。

ターキーエ・アミール・チャグマーグ

古来、ヤズドではテルメと呼ばれる絹織物が製作されてきました。

テルメはかつて上流階級の衣服に用いられたと言われ、1272年にこの地を訪れたマルコ・ポーロの『東方見聞録』にも記されています。

しかし、この地においていつの頃から絨毯が製作されていたのかは明らかでありません。

サファヴィー朝の時代、宮廷の直轄地であったヤズドには織物工房とともに絨毯工房が置かれていたことは十分にあり得ますが、ヤズドで製作されたと推定される作品は一枚も残っていないのが現実です。

テルメ織り

信頼できる説としては18世紀のナディール・シャーの遠征後、戦利品となったホラサン地方の絨毯がこの地に運ばれ、それを模した絨毯が製作されるようになったとするものがあります。

古いヤズド絨毯には落ち着いた色調のヘラティ文様を配した作品が存在することが信憑性を与えており、18世紀以来この町においてそうした絨毯が製作されてきたことはおそらく間違いないでしょう。

しかし、それらの生産量は限られており、ヤズドにおける絨毯産業が本格化するのは19世紀末、ケルマンの職人の指導を受け始めてからのことです。

 

産業革命以降、安価な機械織製品に市場を奪われたのはケルマンやナインに同じ。

その打開策としてヤズド商人たちは近くのケルマンから職人を招聘し、絨毯製作を始めたのでした。

以来ヤズドではケルマン風の絨毯が製作されていましたが、イラン革命後ケルマン絨毯の輸出が激減したことを受け、国内需要を狙ったカシャーン風絨毯の製作に方向転換し今日に至っています。

 

カシャーン風のヤズド絨毯については「カシャーン産」として販売されているのをよく見かけますが、カシャーン産に比べるとデザインが単調で織りは粗く、品質は大きく劣るので注意が必要。

ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。

 

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