2018/10/19
バクチアリは、イラン中央部のチャハルマハル・バクチアリ州を中心に、イスファハン、ルリスタン、ブーシェフルの各州の一部をテリトリーとする部族連合。
既に大半が定住民となっていますが、少数がイスファハン西方のザグロス山中にある夏の宿営地(サーディルまたはヤイラク)とフゼスタンにある冬の宿営地(ガルムシールまたはキシュラク)との間を移動する遊牧生活を送っています。
ペルシャ語系ルリ語のバクチアリ方言を話し、人口は推定30万から40万人。
もとはルリの中でも大ルリ(ルリ・ボゾルグ)に属する一部族でしたが、16世紀のサファヴィー朝期に大ルリと袂を分かちました。
一説によるとバクチアリは、フェルドーシーの『シャーナーメ』(王書)に登場する伝説的英雄、フェリダンの子孫とされます。
また、アケメネス朝を興したキュロス2世直系の子孫とも言われますが定かではありません。
バクチアリの名はペルシャ語のバクト(幸運)とヤール(仲間)、すなわち「幸運の持ち主」の意で、これは彼らが過酷な自然を克服して遊牧生活を送っていたことに由来するものと考えられるでしょう。
今日、家畜の移動はトラックで行われるようになっています。
バクチアリは主にハフト・ラング、チャハル・ラングの二つの集団からなり、数で勝るハフト・ラングはババディ、ディナルニア、ドゥラキ、バクチアルバンドの4部族により構成されています。
チャハルはペルシャ語の4、ハフトは8ですが、かつて両集団はラング=負担する税の額が異なっていたと言われ、そのため争いが絶えず、二つの部族がホセイン・ゴリー・ハーンによって部族連合として統一されるのは1867年のことでした。
立憲革命の際には立憲側につき、ハフト・ラングのハーン(集団長)であったサルダル・アサドとその兄弟ナジャフ・ゴリー・ハーンの指揮のもと、バクチアリ部隊はカジャール朝の都テヘランを包囲。
モハンマド ・アリー・シャーを退位させ、ナジャフ・ゴリー・ハーンが暫定首相の座に就きました。
サルダル・アサド(1856~1917年)とナジャフ・ゴリー・ハーン(1846~1930年)
この一件はテヘランの支配階層にバクチアリの力に対する危惧を植え付けることになります。
1925年にパフラヴィー朝を興したレザー・シャーは、バクチアリのテリトリー内で油田が見つかったことから自治を認めず、部族連合内のハーンであったモハンマド ・レザー・ハーン(のちにサルダレ・ファテフ)を政府の要職に迎え、中央に従わせる策を採りました。
以後バクチアリの政権への影響力は増し、やがてモハンマド ・レザー・ハーンの息子シャープール・バクチアリが首相に就任するに至ります。
シャープール・バクチアリ(1914~1991年)
■絨毯
バクチアリ絨毯は主にバクチアリの定住民によって製作されており、ダブル・ウェフトの高級品とシングル・ウェフトの低級品とに大別することができます。
チャハルショトル産
シャハレコレド産
サマン産
シャラムザー産
ダブルでウェフトの高級品はシャハレ・コレド、チャハル・ショトゥール、サマン、シャラムザーなどの町で製作されますが、その中でも「ビビバフ」と呼ばれる緻密な織りの作品はバクチアリ絨毯の最高級品として珍重されています。
ビビバフは「お婆さんの織り」の意で、その製作には熟練が必要なことからそう呼ばれるようになったのでしょう。
ビビバフ
一方、シングル・ウェフトの低級品はボルダジ、フェリダン、ベインなどの村で製作されており、値段が安いため実用品として使われるのが通常。
最近では、製作された町に関わらずダブル・ウェフトのものを「サマン」、シングル・ウェフトのものを「ホーリ」と呼ぶようになっています。
ボルダジ産
フェリダン産
ベイン産
バクチアリ絨毯と言えば「ヘシュティ」と呼ばれるパネル・デザインが有名。
ヘシュトは日干煉瓦の意で、それを積み重ねたように見えることからそう呼称されますが、もとはペルシャ式庭園に由来する文様です。
庭園文様はティムール朝・サファヴィー朝に仕えた宮廷画家のビフザドが考案したものとされますが、庭園様式の変化に伴い現在のデザインとなりました。
バクチアリの庭園文様はクムやビルジャンドで製作される絨毯のデザインに用いられています。
17世紀の庭園文様絨毯
ヘシュティの他にはバンディと呼ばれる連続文様や近くのイスファハンに倣ったメダリオン・コーナーのデザインが一般的。
現在に至るまで天然染料が使用されており、赤、青、黄などの原色系を多用した色調はわが国では敬遠されがちながら、ヨーロッパではとても人気があります。
2000年頃からはギャッベ人気にあやり、シンプルな文様の毛足の長い絨毯も製作されるようになりました。
トルコ結びです。
シャハレコレド産
ギャッベ風のバクチアリ絨毯