サファヴィー朝の滅亡と絨毯産業の凋落|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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「世界の半分」とまで謳われるほど栄華を誇ったサファヴィー朝も、アッバス1世亡きあとは徐々に衰退します。

1722年にミール・マフムード率いるアフガン軍に首都イスファハンを占領され事実上滅亡しました。

こうしてパトロンを失った宮廷御用達の絨毯工房はすべて閉鎖され、都市部における絨毯産業は途絶えてしまったと伝えられます。

とはいえ、宮廷の保護とは無縁であった農村部や遊牧民における絨毯製作は変わることなく続けられました。

ナーディル・シャー(1688~1747年)

サファヴィー朝の王族たちを処刑したミール・マフムードが1725年に暗殺されると、アフシャル部族連合出身のナーディル ・クリー・ベグがアフシャル朝を興しナーディル ・シャーとして即位。

アフガニスタン、インドに侵攻し、1739年にはムガール朝を破ってデリーを占領します。

この遠征により戦利品として持ち帰られた絨毯の数々はイラン各地に運ばれ、やがて農村部や遊牧民により製作される絨毯のデザインに採り入れられるようになりました。

19世紀初頭のヘラティ文様絨毯(イラン北西部、1820年)

元来ホラサン地方の伝統文様であったヘラティがイラン北西部や南西部の絨毯に見らるのは、またカシュガイ絨毯のミフラブ文様がムガール絨毯のそれと酷似しているのは、これが理由とされています。

しかし、こうした村や遊牧民の絨毯は本来が自家用あるいは身近な換金用を目的として製作されたものであるがゆえ、輸出に回されることはほとんどなく、イランの主要な輸出産業は生糸の生産であったのです。

 

18世紀のムガール絨毯と19世紀のカシュガイ絨毯

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