2018/10/09
19世紀の半ば、ヨーロッパで発生した微粒子病がトルコからイランに伝播し、イランの主要な輸出品であった生糸産業は大きな打撃を受けました。
生糸に変わる輸出品として白羽の矢が立ったのが絨毯です。
これは王侯貴族を中心とする上流階級のみを対象としていたサファヴィー朝期とは異なり、産業革命以後増え続ける中産階級にまで裾野を広げたものでした。
ウィーン万博のペルシャ館
1873年に開催されたウィーン万博以降、ヨーロッパにおける絨毯の需要は格段に増します。
そんな中、英国マンチェスターの貿易商ジーグラー商会がイランに進出。
1883年、スルタナバード(現在のアラク)に支店を開設し綿製品の販売に乗り出しました。
ジーグラー商会スルタナバード支店
支配人のオスカー・シュトラウスは綿製品の代金として受け取るロシア金貨で古い絨毯を買い集め、本国で売り捌くことを思いつきます。
ところがイランに残るサファヴィー朝期の絨毯はすぐに底をつきました。
そこでシュトラウスはスルタナバードに絨毯工房を開設し、新たに絨毯を製作し始めたのです。
彼の目論見は当り、最盛期には2500台に及ぶ織機を有するに至りました。
ジーグラー商会の絨毯工房(スルタナバード)
ジーグラー商会に追随する形で他の外国企業やタブリーズの商人たちもイラン各地に絨毯工房を開設。
ロシアとの戦争や内乱で疲弊していた当時のイランには失業者が溢れており、彼らの受け皿となった絨毯産業はたちまちのうちに都市部にも拡がってゆきます。
こうしてイランにおける絨毯産業は見事な復興を遂げていったのでした。