2018/10/15
イラン中央部にあるクム州の州都で、人口は約120万人。
かつてはマルカジ州に属していましたが、1995年にクム州が新設されたことにより、その州都となりました。
カビール砂漠の西端、テヘランからイスファハンへと至る幹線上に位置し、町の東には塩漠が広がります。
そのため水質が農耕・飲料に適さず「クムの水を飲むと病気になる」と言われるほど。
ハズラテ・マスメを擁し国内外から多くの巡礼者が訪れるこの町は、マシャドに次ぐイスラム教シーア派の聖地として知られてきました。
アッバス2世をはじめとするサファヴィー朝の君主たちや聖職者たちの霊廟が立ち並ぶクムはまた、神学教育の拠点ともなっており、イラン革命を指導したルーホッラー・ホメイニもこの地に学んだ一人でした。
イマーム・ホメイニ国際神学校は3000人にのぼる留学生を無償で受け入れています。
ハズラテ・マスメの聖域
クムの歴史はササン朝の時代に遡ります。
8世紀初頭、メルヴに滞在中の兄イマーム・レザーを訪ねてイランを旅していたファーティマがこの町で客死し、彼女の墓を中心とした巡礼地が誕生して宗教都市になったと言われます。
ファーティマはイスラム教の開祖であるモハンマドの娘と同名ゆえ混同されることがよくありますが、別人物。
1501年に興ったサファヴィー朝が十二イマーム派を国教に定めてからは、宮廷の保護を受けて繁栄しました。
イラン革命
1978年にパリに亡命していたホメイニーを中傷する記事が新聞に載ります。
これを受けクムで学生を中心としたデモが発生。
この動きはたちまち全国的な反政府暴動に広がり、翌1979年にはホメイニーが帰国して革命政府が樹立され、パフラヴィー朝が倒れされるイラン革命に発展します。
革命後、イスラム共和国の最高指導者となったホメイニはテヘランに移るまでの数年間、クムから国政を司りました。
1940年代のクム絨毯
クムにおける絨毯製作は1930年代半ばに始まったとされています。
初期の時代にはアリー・タージル・ラシュディザデ、メヒディー・アルサラニらカシャーン出身の絨毯作家が活躍し、この町における絨毯産業の基盤を創りました。
この頃製作された作品には他産地のデザインを真似たものが多く、それは町の絨毯のみならず部族民の絨毯にまで及んでいます。
アリー・タージル・ラシュディザデとメヒディー・アルサラニの作品(いずれもシルク)
1960年代に入るとシルク絨毯が製作され始め、以後ウール絨毯とシルク絨毯の割合は逆転。
1980年代にはシルク絨毯が主流になり、ウール絨毯はほとんど製作されなくなりました。
1980年代のクム・シルク(ミールメヒディー作)
その後、日本でバブル景気が起こるとクム絨毯の需要は一気に増し、クムから遠く離れたイラン北西部のザンジャンやマラゲでそのコピー品が製作されるようになります。
また製作にかかる時間を短縮するため、クムにおいてもペルシャ結びからトルコ結びに切り替える工房が増え始めました。
タブリーズと並び、イランの絨毯の産地の中ではもっとも流行に敏感なのも特徴の一つと言えるでしょう。