トライバルラグの産地(部族)|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

アフシャル

アフシャル

アフシャルの概要

イラン、トルコ、アゼルバイジャンに居住するトルコ系部族。
現在、アフシャルの居住地域はイランでは北西部クルディスタン州のビジャー周辺、北東部ラザヴィー・ホラサン州のクチャン周辺及び中南部ケルマン州のジルジャン、シャハレババク、ラフサンジャン周辺。
トルコでは中央部カイセリ県のサルズ、トマルザ、プナルバシュ周辺。
アゼルバイジャン共和国ではバクー周辺です。
いまではほとんどが定住化もしくは半定住化しており、遊牧生活を営んでいる世帯はごく僅かです。

アフシャルの居住地域

アフシャルの歴史

アフシャルはカシュガイやトルクメン同様、中央アジアの遊牧民族であったオグズを起源に持つとされます。
もとはアゼルバイジャン地方にいましたが、のちにサファヴィー朝の初代君主となる神秘教団の指導者イスマイルに従い、キジルバシュに参加。
サファヴィー朝の成立に貢献します。
しかし、その後キジルバシュは部族間で争いを繰り返しため、頭を痛めた第2代君主のタハマスプ1世はアフシャルを南部のケルマン地方へと追放。
その後、第5代君主アッバス1世の時代にもマザンダラン地方やホラサン地方に強制移住させられました。
18世紀になるとアフシャル部族連合に属するキルクルー族出身とも伝えられるナーディルに率いられて猛威を振るいます。
1736年にナーディルは「ナーディル ・シャー」を名乗ってアフシャル朝を興しますが、彼はアフシャルを更にアナトリアに追放。
1747年、ナーディル ・シャーはクルドの反乱を鎮圧に向かう途上、アフシャル出身の軍人に暗殺されました。

アフシャル絨毯

アフシャル絨毯は「ケルマン・アフシャル」と「アフシャル・ビジャー」とに大別されます。
ケルマン・アフシャルはケルマン地方のアフシャルが製作する絨毯。
デザインのヴァリエーションは実に様々で、そのうちのボテ(ペイズリー)文様についてはアフシャルが最初に絨毯に用いたとする研究家がいます。
アフシャル絨毯にはこのボテのほか、花瓶文様やラーレ(チューリップ)文様、「ゴル・ファランギ」(ヨーロッパの花)とよばれる花束文様などを連続させたオールオーヴァーのものが多く見られますが、イラン南部の他部族の絨毯によくある菱形のメダリオンを並べたデザインも有名です。

アフシャル絨毯 アフシャル絨毯

アフシャル絨毯

アフシャル・ビジャーは、サファヴィー朝からアフシャル朝にかけての強制移住を逃れてイラン北西部に留まったアフシャルの子孫が製作する絨毯ですが、現在製作の中心はビジャー北方のタカブやブカンに移っています。
アフシャル・ビジャーはサファヴィー朝時代から製作されてきたとされますが、19世紀以降に製作されたものの多くがヘラティ文様の絨毯。
イランでは「マヒ」(魚の意)とよばれるヘラティ文様はこの地を起源とするとした説があるものの、アフシャル朝のナディール・シャーが移住させたホラサン地方の絨毯職人が伝えたとする説の方が有力です。
アフシャル・ビジャーはビジャー絨毯の最高級品として高い評価を受けています。

オラッド

オラッド

オラッドは「部族」「一族」を意味する語で、特定の部族を指したものではありません。
イスファハンのバザールでは「パシュクヒ」とも呼ばれますが、パシュクヒは小ルリに属する支族の名。
パシュクヒはポシュティ・クーヒ、すなわち「山の向こう」に由来し、サファヴィー朝期には既に名を知られていました。
しかし、オラッド絨毯を製作しているのはこのパシュクヒ族ではなく、チャハルマハルの南西端にあるザグロス山脈に近いナグンに住む、ルリもしくはバクティアリの一族と考えられます。

オラッド

この種の絨毯がパシュクヒと呼ばれるようになった経緯について、絨毯研究家のP・R・J・フォードは……オラッド絨毯がはじめてイスファハンのバザールに現れたとき、それらがどこで織られたのか、誰が売りに来たのかわからなかった。「これは儲かる」と直感した絨毯商だが、彼はそれらを製作した部族を明らかにすることに拘っていなかったので、産地を「パシュクヒ」だと話した……と解説しています。
デザインはルリに準じたものが一般的ですが、バクチアリ風のパネル文様を織り出した作品も存在。
しかし色調はバクチアリ産とは異なり、ルリ絨毯に近いものとなっています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。

オラッド

カシュガイ

カシュガイ

カシュガイの歴史

カシュガイの源流は中央アジア北部のトルコ系遊牧民族オグズにあるというのが定説。

オグズはやがて南下してトルクメンとなりますが、カシュガイはもとはトルクメンの一派で、その名はトルコ語で馬の白斑を意味する「カシュカ」に由来するとした説があります。

馬の白斑は勇者・英雄のシンボルでした。

また、現在は新疆ウイグル自治区のカシュガルを出たサード・イブン・ザンギに従った2万人の一行が自身を「カシュガリ」と称し、それがカシュガイになったとする説。

あるいはカシュガイはもとはトルクメンのヨムート族で、彼らを指す「カシュク」が訛ってそうよばれるようになったなど、出自についてはいくつもの説があります。

カシュガイは一説によると13世紀、チンギス・ハンの征西に参加して中央アジアからコーカサス地方に進出。

やがて白羊朝の成立に加わったのち、白羊朝がサファヴィー朝に倒された後の16世紀初頭、サファヴィー朝初代君主イスマイル1世によりイラン南部のファース地方へ強制移住させられたといいます。

これはポルトガルが海から侵攻してきた際にカシュガイをこれと戦わせるため、そしてザグロス山脈の彼方に追放することによりその脅威をなくすためであったとのことですが、それを裏付ける確たる証拠はありません。

白羊朝の紋章を用いたカシュガイの旗

この部族が注目を集めはじめるのは1750年に興ったザンド朝の時代からです。

同じオグズ出身のトルクメン同様に、その好戦的かつ反抗的な姿勢に歴代の中央政府は手を焼いてきました。

カシュガイを抑えるため、カジャール朝のナセル・ウッディーン・シャーにより18612年にかけてに結成されたのが「ハムセ部族連合」であることはよく知られています。

カシュガイの武闘派としての性質は20世紀に入ってからもたびたび現れ、第一次世界大戦中の1918年、英軍の南ペルシャ・ライフル隊と戦いこれを撃破。

1930年代初頭には平定に乗り出した政府軍と一戦を交えて敗北しました。

これにより部族連合の総長(イルハン=最高指導者)であったサウラト・ウッダウラは彼の息子とともに捕らえられ、のちにウッダウラは処刑されます。

カシュガイの戦闘部隊

第二次世界大戦後はソ連に近づくモハンマド・モサッデク首相を支持してモハンマド・レザー・シャーと対立し、更に1962年から64年にかけてはシャーが進める「白色革命」の農地改革に抗して蜂起。

反乱は鎮圧され、総長のホスロー・ハーン・カシュガイはドイツに亡命します。

ホスローはイスラム革命によりパフラヴィー朝が倒れたのちに帰国しますが、新イスラム政権は彼を拘束し公開処刑しました。

ホスロー・ハーン・カシュガイ

現政権は定住を拒むカシュガイの世帯には厳しい態度で臨んでいるといわれます。

最近では、フゼスタン州で牧草地を没収するなどの差別的政策を実施したとして、国際社会から非難を受けました。

また、人種的マイノリティであるカシュガイはヨーロッパにおけるジプシーのごとく、現在も様々な差別の対象となり得ているとして人権団体からは危惧する声が上がっています。

カシュガイの組織

部族連合の総長は傘下にあるすべての部族を統括。

各部族(タヴァッエフ)の族長がその傘下にある各支族=氏族(ティーレフ)を統括し、支族長は一族の各世帯を統括するという厳格な階層制度が機能しています。

数千人以上の人口を擁する大部族ではおよそ100世帯毎にグループ化されており、宿営地間の移動はグループ単位で波状的に実施。

その統率のとれた姿はカシュガイ独特のものとして有名です。

カシュガイの移動風景

カシュガイの構成部族

カシュガイは単一部族ではなく、複数の部族の連合体。

自らが主張するところによると部族連合全体の人口は100万人から150万人ですが、実際は40万人から25万人ほどといわれます。

こうまで開きが出る理由は彼らが戸籍を持たないから。

これまで何度か調査が行われてきましたが、2008年の調査結果に基づき世帯数が多い順に構成部族を紹介します。

カシュクリ族(5,512世帯):

クルディスタンからファース地方へと移り住んだといわれる部族。

カシュクリ族は「大カシュクリ族」(カシュクリ・ボゾルグ、4,862世帯)と「小カシュクリ族」(カシュクリ・クーチェク、650世帯)とに分かれており、大カシュクリ族のほとんどはイラン南西部最大の町であるシラーズの西から北西にかけての地域に定住しています。

もとは一つであったカシュクリ族が二つに分裂したのは20世紀に入ってからのこと。

第一次世界大戦の際、カシュガイ部族連合総長サウラト・ウッダウラは、ドイツ領事館のヴィルヘルム・ワスムスと手を組んでドイツを支援しました。

しかし、カシュクリ族はそれに反して英国を支援。

戦後、アッダウラはカシュクリ族の有力者たちを排斥した上、自らに忠誠を誓う者だけを部族本体から分離独立させます。

このとき分離独立した集団が小カシュクリ族、残る本体が大カシュクリ族とよばれるようになりました。

カシュクリ族は大小いずれの部族もが、きわめて質の高い絨毯の織手として知られています。

なお、カシュクリ族が製作する絨毯の中には18世紀のインドやアフガニスタンの絨毯によく似たデザインがありますが、これはアフシャル朝のナーディル・シャーが戦利品として持ち帰った絨毯がイラン南部に運ばれたからというのが定説です。

 

アマレ族(5,397世帯):

チャハルマハル・バクチアリ地方からファース地方へと移り住んだといわれる部族。

アマレ=奉仕の名が示す如く、もとは総長一家の警護や身辺の世話にあたる小部族でした。

現在は実質的な最大勢力として部族連合を支配するまでに成長し、カシュガイ総長はアマレ族のシェカルー家の男性から選ばれるのが慣例。

2008年の調査では450世帯が定住しているとあります。

 

ダレシュリ族(5,265世帯):

もともとファース地方にいた部族で、カシュガイの傘下に入ったのはザンド朝の時代、18世紀後半になってからといわれます。

古来、狩猟に長けていることで知られ、馬の保有と育種にかけては部族連合内随一。

「ダレシュリ馬」はアラブ種の名馬として有名です。

パフラヴィー朝を興したレザー・シャーはダレシュリ族長であったホセイン・ハーン・ダレシュリの力を借りてファース地方を平定しました。

 

シシボルキ族(4,350世帯):

イラク北部に住むイラク・トルクメンの分派とされており、イラク北部からイラン北部へと移動。

その後、ファース地方へ移り住んだといわれ、シシボルキの名はイラン北部カラジェスタンの「ボルケ・シシ」に由来すると説く研究者もいます。

かつては素晴らしい絨毯を製作していましたが、現在はキリムの方が有名。

 

ファルシマダン族(1,505世帯):

カシュガイの本流といわれるカラジャ族の分派とされる部族で、カラジェスタンからファース地方へ移り住んだといわれます。

1590年に族長のアブドルカゼム・ベグが、サファヴィー朝のファース総督であったヤコブ・ハーンと共謀してアッバス1世に謀反し処刑されているので、既に16世紀後半にはファース地方に移住していたのでしょう。

現在のカシュガイは、このファルシマダン族にいくつかの部族が合流して形成されたとする説があります。

 

カラジャ族(430世帯):

トルクメンの一派であったとされ、カシュガイの始祖となった部族であるともいわれます。

カシュガイの名はトルコ語の「カチ・カイ」が訛ったもので、カチは脱走、カイはカラジャ族の俗称。

つまり「カラジャ族の脱走」を意味すると説く研究者がいます。

カラジェスタンからファース地方に移り住んだとされますが、ファルシマダン族などと分裂した経緯・時期については定かではありません。

 

ラヒーミ族(370世帯):

部族名は創設者の名に由来するものと思われますが、出自等については不明です。

 

サフィハニ族(335世帯):

ルリスタンからファース地方に移り住んできたといわれ、その名はおそらく創設者であろうサフィ・ハーンに由来するものと推測されますが、資料が乏しく詳細については明らかではありません。

カシュガイの生活形態

大きく分けると「定住民」と「遊牧民」になりますが、冬の間は定住生活を送り、夏になると遊牧生活を送る半定住民もいます。

 

定住民:

政府が進める同和政策を受け入れ、定住化する世帯は年々増加しているのが現状。

既にカシュガイの全世帯の半分ほどが定住化もしくは半定住化しているといわれます。

きわめて統制のとれた部族として知られるカシュガイですが、その背景にあるのは厳格な階層制度。

たとえ定住したとしてもそれは変わることなく、定住民には三つの階層が存在しています。

第一階層にある人たちは広大な土地や多数の家畜を所有しており、とても裕福。

部族内はもちろんファース州や中央政府にまで影響力を及ぼす者もおり、シラーズなどの都市部に居を構えています。

第二階層にある人たちは程度の差こそあれ土地や家畜を所有し、放牧あるいは小作人として自営している者がほとんど。

第三階層にある人たちは土地や家畜を持たず、第一階層あるいは第二階層の人たちに雇われて生活しており、労働の対価として食料や衣類、家畜を受け取るのが一般的です。

絨毯やキリムは定住民にとっても大きな収入源の一つであるのが実際。

ギャッベやキリムを「遊牧民が製作した敷物」とする説明は現実に則したものではありません。

織機は「水平型固定式」を用います。

カシュガイの定住民

 

遊牧民:

カシュガイの遊牧民は毎年、夏と冬の宿営地の間を片道23ヵ月かけて移動。

その距離は500キロメートルほどにも及びますが、ルートはイルハンにより部族ごと明確に定められており、重なることはありません。

各部族は自らのルートに従い、波状的に移動します。

夏の宿営地(ヤイラク)はザグロス山脈南端の海抜3,000メートルのディナール山の斜面で、これは富士山の7合目とほぼ同じ高さ。

彼らは秋になるまでこの地で過ごし、やがて山を離れて平野に移動したのち、4月までをシラーズ南方にあるフィルザバドの西から南にかけての冬の宿営地(キシュラク)で過ごします。

そして、春になるとまた移動……

移動には小型トラックやバイクも用いられます。

なお、カシュガイの遊牧民は絨毯やキリムの製作に一時間もあれば分解もしくは結合が可能な「水平型移動式」の織機を使用してきました。

しかし最近ではトラックで大きな荷物も運べるようになったため、分解・結合不要な水平型固定式織機が使われるようになってきています。

カシュガイの「ブラック・テント」

カシュガイの文化

言語:

アゼルバイジャン語に似たカシュガイ・トルク語のほか、ほとんどがペルシャ語を話します。

 

宗教:

カシュガイの94パーセントがイスラム教シーア派(十二イマーム派)を信仰しており、残りの6パーセントがキリスト教徒です。

ただし戒律には厳格でなく、とりわけ総長は自らを聖職者として崇めさせることで統治を円滑に行っているとも。

なお、現在のイスラム政権はカシュガイの伝統的な音楽、舞踊、競技を反イスラム的であるとして批判しています。

 

服装:

男性は「ドグーシ」とよばれる帽子を着用します。

ドグーシは「二つの耳」の意で、左右に耳覆いが付いたベージュ、カーキあるいはグレーのフェルト製。

1928年から41年にかけてレザー・シャーは民族衣装の着用を禁じていましたが、解禁後この帽子はカシュガイ男性の象徴として定着しました。

女性は実にカラフルなスカーフ、チュニック、ロングスカートを身に着けています。

1979年のイスラム革命以降、イラン政府は国内の女性に対しチャドルもしくはマグナエ(頭巾)+コートの着用を義務付けました。

それはカシュガイの女性たちとて例外ではなく、街に出る際には華やかな衣服の上にチャドルを羽織るようになっていますから、バザールなどで見かけても気づかないかもしれません。

カシュガイの家族

 

結婚:

結婚は家族間で決められるのが伝統。

結婚式の日取りはその数日前に花嫁とその家族に知らされます。

新郎の家族が到着すると花嫁は馬で式の場に運ばれるとともに、花嫁の女性親族は準備に移行。

結婚式は数日間にわたって執り行われ、音楽やダンスが披露されます。

かつては部族を超えての結婚などあり得ませんでしたが、最近では他部族はもとよりイラン人との結婚も珍しいことではなくなりました。

カシュガイの花嫁

カシュガイ絨毯

40万人を擁するトルコ系部族で国の定住化政策に背き、現在もイラン南西部、ザクロス山脈の麓で遊牧生活を営んでいます。カシュガイはユニークな意匠の絨毯を産出することで知られますが、カシュガイの支族であるカシュクリによるものは、その織の緻密さから、とくに珍重されています。近年のギャッベ・ブームに押され、伝統的なカシュガイ産絨毯は徐々に姿を消しています。

クルド

クルド

クルドの概要

トルコ南東部からイラク北部の山岳地帯を中心に、イラン北西部、シリア北東部などを含めたクルディスタンと呼ばれる地方に暮らす部族で「国家を持たない世界最大の民族」と言われています。

政治的理由などにより明確な統計がありませんが、人口はトルコ、イラク、イランにそれぞれ200万人で合計600万人以上とするものから、2,500~3,000万人とするものまで諸説あります。

母語はインド・ヨーロッパ語族に属するクルド語で、ペルシャ語の古典形の一種。

クルド語はイランとイラクとに跨る地域で使用される「クルディ」と、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、北イラクで話される「クルマンジー」との大別されますが、両者の違いはきわめて大きく、共通の文字さえありません。

クルドの歴史

紀元前3000年頃のシュメールの碑文に「カルダカ」という国の名があり、それをクルドの起源とする説がありますが、一般には古代グティウム王国に遡ると考えられています。

グティウム王国は紀元前2400年頃に存在した国家で、アラフカ(現在のキルクーク)を都としていました。

その後、現在のクルディスタン地方にはカルドゥチという名の国が存在し、アケメネス朝の時代には「カルダカイ」と呼ばれていたことがわかっています。

クルドという名は7世紀のアラブ人の侵攻以降に使われるようになったとされ、「クルドの地」を意味するクルディスタンが正式に地名として定められるのはセルジュク朝第8代君主であったアフマド・サンジャル(在位:1118〜1157年)の時代のこと。

イルハン朝期には現在のケルマンシャーにスルタナバード・チャムチャールという町が創設されて経済・文化の中心地となります。

ティムール朝の時代に入ると首都タブリーズに近い現在のサナンダジ近郊に建設されたハサナバード城塞がその中心となり、サファヴィー朝の時代にはオスマン・トルコとの争奪戦の舞台になりました。

第二次世界大戦終結直後の1946年1月、ソ連の支援によりマハーバードに「クルディスタン共和国」が建国されます。

しかし、石油開発の独占権を持つソ連とイランの合弁会社を設立することを条件にソ連軍は撤退。

クルディスタン共和国はイラン国軍の侵攻を受けて崩壊しました。

クルドの構成部族と絨毯

■部族

 

ジャフ:

ジャフは約400万人を擁するクルド最大の部族で、イランのクルディスタン州、ケルマンシャー州からイラクのスレイマニア州にかけて居住しています。

「ジャフィ」とよばれるソラニ語(クルド語の方言)を話し、クルドの中では教育の行き届いた知的な部族として知られています。

もとは遊牧民でしたが、現在はそのほとんどが定住し、農民となっています。

 

ヘルキ:

ジャフに次ぐクルド第二の勢力で、イラク北部のモスールからエルビルに至る地域を中心に、イラン西部のクルディスタン州及び西アゼルバイジャン州、トルコ東部のヴァン湖周辺に暮らしています。

メンダ、サイダ、セルハティの三つの支族があり、「クルマンジ」とよばれるクルド語の方言を話します。

カカベル:

クルディスタン州の州都であるサナンダジの北に暮らす部族。

濃紺のフィールドにメダリオンやゴル・ファランギ、ボテ等を大胆に配した野性味あふれる作風が特徴で、色はやや暗め。

デザインには隣接するコリアイとの共通点が多いものの、ダブル・ウェフトの構造ゆえシングル・ウェフトのコリアイ産との判別は容易です。

なお、サナンダジやハマダンのバザールで言う「カカベル」とは、サナンダジ周辺に暮らす遊牧民が製作した絨毯の総称で、カカベル族以外の作品も含まれています。

カカベル産

 

ギャッルース:

サナンダジの東、ビジャーの南に暮らす部族。

アフシャル・ビジャーを除くビジャー絨毯の多くはギャッルース族の女性たちによって製作されています。

グラニ:

サナンダジの南、ケルマンシャーの北に暮らす部族で、クルド語のアルダラニ方言を話します。

セネ絨毯は主にグラニ族が製作したもの。

セネ産

 

コリアイ:

サナンダジの南東に暮らす部族。

センジャビ:

ケルマンシャーの北東に暮らす部族。

この部族は1730年代にファースやルリスタン、シャーリズル、ディムラからマヒダシュト・ケルマンシャー近くの渓谷に移り住んだ人々がクルドのグラニ族に属するゼンゲネ族の農民との連合体でした。

出自の異なる部族の連合体ゆえに統制を欠いていましたが、その後の経過によりセンジャビの名のもとに統合されたと言います。

ハリバイ:

ビジャーの北を主なテリトリーとする部族で、かつてはビジャー絨毯の最高級品を製作していたと言われます。

その「ビジャー・ハリバイ」あるいは「ハリバイ・ビジャー」と呼ばれる絨毯は他のビジャー絨毯よりも織りが緻密で、縦糸・横糸にはウールが用いられており、それほど固くありません。

ビジャー・ハリバイの名はハリバイ族に由来するものですが、それらが実際にハリバイ族によって製作されたものなのか、あるいはケルマン・ラバーのように品質を示す名称であるのかは不明です。

 

シャーサバン

シャーサバン

シャーサバンの概要

シャーサバンはイラン北西部、アルメニア共和国及びアゼルバイジャン共和国との国境付近に暮らす遊牧系部族連合です。

彼らはアゼルバイジャン語を話し、遊牧生活を営む一部の人々は、アゼルバイジャンのモガン平原の冬の宿営地(キシュラク)と、サバラン山の南から約150マイル周辺の夏の宿営地(ヤイラク)の間を移動します。

シャーサバンの人口は10万人から12万人(15,000〜18,000世帯)と推定されます。

1970年代初頭には、4万人がモガンとサバラン山の間を移動生活を送っていました。



◾️形態

シャーサバンは、イランの他の部族連合とは異な​​り、総長(イルハン)が配下の部族を統率するのではなく、 複数の有力部族の族長(ハーン)が外部や中央との仲介者となります。

シャーサバンの歴史

シャーサバンの起源については明らかではありませんが、クルドなどから派生したと考えられる一部の支族を除けば、11世紀に西南アジアを席巻したトルコ系民族、オグズに由来するものと考えられています。

シャーサバンの名は「シャー(皇帝)に忠誠を誓う者たち」を意味すると言われ、1815年に英国のジョン・マルコルム卿が著した『ペルシャの歴史』によると、サファヴィー朝第5代君主であったアッバス1世(在位1587〜1629年)が、イラン西部の開拓を妨げるキジルバシュに対抗させるため、アゼルバイジャン北東部の部族民を集めて結成。

シャーサバンはイスラム教シーア派に改宗してシャーに忠誠を誓い、サファヴィー朝の軍事力を担う見返りとして、北東アゼルバイジャンにおける遊牧生活を認めたとされます。

また『シャーサバン』を著したウラジミール・ミノルスキーは、モガン国境警備隊長I・A・オグラノビッチとタブリーズ総領事E・クレーベルの記録から、シャーサバンは朝廷の傭兵としてアナトリア出身のユンシュル・パシャのもとに組織され、パシャの一族が総長(エルベイ、イルベギ)を世襲。

総長一族が他の構成部族を支配し、17世紀半ばにシャーサバンと名付けられたとしています。

他には16〜17世紀にキジルバシュに属する32の部族が、対等の地位のもとに連合したとする説があります。

モガン平原

1722年にサファヴィ朝が滅亡すると、イラン北西部にはオスマン・トルコとロシアとが侵攻し、とりわけ要衝であったモハンとアルデビルは3つの帝国の争奪の場となりました。

このときシャーサバンはオスマン軍に抵抗します。

1728年秋にメシキンにてシャカーキが、1729年初頭にはイナンルとアフシャルがオスマン軍に降伏しますが、シャーサバンとモガンルは太守アリーゴリー・ハーン・シャーサバンの指揮のもと奮戦し、クラ川を渡りサルヤンまで進出しました。

1732年にアフシャル朝を興したナーディル・シャーがこの地域を奪還したとき、シャーサバンとモガンルはイランの主権下に復帰。

オスマン帝国の配下となっていたシャカーキ、イナンルとアフシャルは、ナーデルの故郷であるホラサンに追放されます。

ナーディル・シャーは、モガン平原とアルデビル周辺に残った部族を、ナーディルの東征に従ったバドル・ハーン・シャーサバンのもとに結集させ、シャーサバン部族連合を組織したと言います。

ナーディルの死後、バドル・ハーンの息子(兄弟との説もあり)ナシャール・アリー・ハーン・シャーサバンが総長の座に就きますが、相次ぐ抗争やロシアの侵攻の中、アルデビルを拠点とする勢力とメシキンを拠点する勢力との二つの集団に分裂しました。

1796年、カジャール部族連合のアガー・モハンマド・ハーンがカジャール朝を興しますが、二度にわたるロシアとの戦争に敗れ、コーカサス地方をロシアに割譲します。

1828年に締結されたトルコマンチャーイ条約により、シャーサバンは冬の宿営地の大半を失い、南方への移動を余儀なくされました。

これによりシャーサバンは大きな経済的ダメージを受け、統制の乱れを招くことになります。

そして、以後イラン、ロシアと激しい抗争を繰り返すことになりました。

第一次ロシア・ペルシャ戦争(1804~1813年)

1921年のクーデターにより実権を握ったレザー・ハーンはその翌年、中央に反抗的な部族民の制圧に乗り出します。

イラン国軍との戦いに敗れたシャーサバンは武装解除され、ハーンの多くは処刑されるか遠島されました。

パフラヴィー朝の成立後、強制的に定住させられたシャーサバンの集落はやがて貧困に陥り、1941年には遊牧生活を再開。

部族連合を再結成し、進駐したソ連軍とアゼルバイジャン国民政府に抵抗しました。

シャーサバン絨毯

シャーサバンの女性たちが製作する絨毯やキリムはもともと自家用で、嫁入り道具として用いられるものでした。

1970年代になって欧米の市場にて部族民が製作する絨毯、いわゆるトライバルラグが注目されはじめると、自家用の絨毯の多くは絨毯商たちに買い取られ、更にイラン革命以降は海外向けに生産されるようになります。

 

シャーサバン産のキリムとソマック

モガン平原とアルデビル周辺に居住するシャーサバンが製作しているのは、もっぱら平織のキリムやソマックと呼ばれる綴れ織りの敷物・バッグ類で、パイル織絨毯は製作していません。

シャーサバンの居住地域はカスピ海沿岸の絹の産地に近いため、ソマックの中には横糸のすべてあるいは一部に絹糸を使用したものも見られます。

 

ハシュトルード地方のシャーサバン絨毯

パイル織絨毯を製作しているのは、タブリーズ南方のハシュトルード地方やクムに近いサーベ近郊に定住したシャーサバンで、コーカサス絨毯に似た幾何学文様のメダリオンを連続させたデザインが多く見られます。

これらの地域に暮らすシャーサヴァンが製作する絨毯には隣接するクルドの影響を受けた作品もありますが、クルド絨毯に比べると柔らかい構造が特徴です。

トルコ結び、ダブル・ウェフト。

サーベ近郊で製作されたシャーサバン絨毯

トルクメン

トルクメン

トルクメンの概要

トルクメニスタンを中心にウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、イラン、イラク、アフガニスタン等の国々に居住する民族。

トルクメンはテュルク系民族と中央アジアの先住民との混血により形成されたと考えられており、ラシッド・ウッディンが著した『集史』によれば、中央アジア北部にあったオグズの24支族の子孫であるとされています。

オグズは10世紀以降南下してトルクメンと呼ばれるようになりますが、トルクメンの語源については明らかではありません。

一説によれば、トルコ人のようなものを表す「トゥルク・マネンド」が語源とも言われます。

のちに西アジアに大帝国を築くセルジュク朝やオスマン朝はトルクメンから興りました。

かつては奴隷貿易でその名を知られ、同じイスラム教徒ではあってもシーア派のイラン人やキリスト教徒のロシア人を拉致してはヒヴァやボハラの奴隷市場で売りさばいていました。

こうした略奪行為はアラマンと呼ばれ、彼らの間では偉業であったとされています。

トルクメンの奴隷貿易はその根絶を大義名分に中央アジアに侵攻したロシアによって終焉させられました。

トルクメンの歴史

8世紀にオグズはアルタイ山脈から中央アジアへの移動を開始したとされますが、トルクメンが歴史に登場するのは10世紀のこと。

のちにセルジュク朝を興すことになるオグズの支族、クヌク族の族長であったセルジュクは、一団を率いてアラル海北岸から東岸へと移動しました。

ジャンドを拠点に遊牧生活を営むとともにイスラム教に改宗し、この頃からイスラム教に改宗したオグズはトルクメンと呼ばれるようになります。

11世紀初頭、セルジュクの息子アルスラーン・イスライールに率いられたトルクメンがホラサン北部に侵入したことを脅威と見たガズナ朝のマフムードは、アルスラーンを捕らえて幽閉しました。

これにより統制を失ったトルクメンは、ホラサン北方の諸都市周辺で多数の家畜の放牧を始めたため、牧地が荒廃し、租税収入も減少。

マフムードは彼らの討伐に乗り出しますが、トルクメンはカスピ海の東北に拠点を設け、各地で略奪を行いました。

トルクメンはさらに他の集団も合わせて数人の長(ベグ)の指揮のもと、ホラサンの諸都市の略奪を続けます。

これら無統制となって暴徒化したトゥルクマーンを取り締まるため、ガズナ朝に見切りをつけたニシャープールの支配者アーヤーン家の要請により、セルジュク家のトゥグリル・ベクらは1038年ニーシャープールに入城。

セルジュク朝が成立します。

 

14世紀にはイウェ族出身のトルクメンがアナトリア東部からイラク北部にかけての地域に黒羊朝(カラ・コユンル)を興し、1408年にはアゼルバイジャンの中心都市であったタブリーズ、1411年にはイラクのバグダッドを得て勢力を拡大しました。

黒羊朝は1467年にバヤンドル族のトルクメン国家である白羊朝(アク・コユンル)に倒され、以後西イランを中心とする地域は白羊朝のウズン・ハサンにより統治されました。

ウズン・ハサンの死後、白羊朝は急速に衰えサファヴィー神秘教団のイスマイル1世によって滅ばされますが、まさにこの15世紀はトルクメンの最盛期であったと言えるでしょう。

 

17世紀以降、カスピ海東岸に居住していたトルクメンたちはバルカン山脈やアム川下流のホラズム地方に移動しますが、居住地を巡る先住民や部族間の抗争により、部族毎の勢力は衰えていったと言われます。

トルクメンの構成部族

トルクメンには「ティーレフ」あるいは「タイーフェフ」とよばれる、いくつもの支族があります。

トルクメニスタン国旗にはこれらのうち主要五部族のギュル(紋章)が描かれています。

主要五部族は以下のとおり。

トルクメニスタン国旗

 

テッケ:

トルクメニスタンの南東部を主なテリトリーとする部族で、人口は約160万人。

トルクメニスタンの人口の三分の一以上を占めていますが、一部はイラン、アフガニスタンにもいます。

トルクメニスタンのテッケはアハル・テッケとマリー・テッケとに分かれますが、アハル・テッケは同国の支配的勢力であり、初代大統領サパルムラト・ニヤゾフ(1940年~2006年)と第二代大統領グルバングル・ベルディムハメドフ(1957年~)はいずれもアハル・テッケの出身です。

カラハン朝の学者であったマフムード・カシュガリー(11世紀~12世紀初頭?)が著した『テュルク諸語集成』や、イルハン朝の宰相であったラシッド・ウッディーン(1249~1318年)が編纂した『集史』にはトルクメンの祖とされるオグズの24(22)氏族についての記述がありますが、そのいずれにもテッケの名は記されていません。

一説によれば13世紀のモンゴルの征西に参加し、その後サファヴィー朝の成立に貢献したトルクメンの集団キジルバシュから派生した部族であるとされますが、その起源については謎のままです。

テッケの名はヒヴァ・ハン国第15代君主となったアブル・ガージーが著した『トルクメンの系譜』に初めて登場します。

同書には1525年から35年にかけてのソフィアン・ハーンの治世下において、テッケは内サロール(イシュキ・サロール)に属していたことが記されており、当時はサロール、ヨムートとともにマンギシュラク半島に暮らしていたようです。

のちにバルカン山脈一帯へと移動し、1616年にヒヴァ・ハン国第12代君主のアラブ・モハンマドの子ハバシュとイルバルスが父親に対して反乱を起こした際には、サリク、ヨムートとともにこれを鎮圧。

これによりイスファンディアルが即位しますが、イスファンディアルの死後、弟のアブル・ガージーが即位すると彼はトルクメンを中央から排除し、弾圧します。

18世紀半ばにはヨムートとイランに新たに興ったアフシャル朝による攻撃を受けたテッケは、バルカン山脈東方のアハル地方に逃れるを余儀なくされ、以後はアハル地方を拠点に略奪行為を繰り返しました。

アフシャル朝を倒してイランの覇権を握ったカジャール朝は、トルクメンの征伐を開始。

1845年、カジャール朝との戦いに敗れたテッケはサラフスに移り、暫し服従の姿勢を見せるものの、またもやイラン領内に侵入してイラン軍の攻撃を受けます。

サラフスを逃れたテッケは、サリクの拠点であったマリーに侵攻してこれを奪いました。

 

ヨムート:

トルクメニスタン西部のカスピ海東岸を主なテリトリーとする部族。

一部はイランのゴルガン周辺、ウズベキスタンのヒヴァ周辺にもいます。

とりわけイランのトルクメンの中ではギョクレンとともにその大半を占めています。

テッケ同様、ヨムートの名はオグズ24(22)氏族について記した『テュルク諸語集成』『集史』に登場しません。

17世紀末までには確立されていたと考えらていますが、その成り立ちについては定かでなく、彼らが歴史に登場するのは18世紀になってからのことです。

1740年、アフシャル朝を興したナーディル・シャーはヒヴァに侵攻し、これを占領。

ヒヴァ・ハン国のイルバルス2世は処刑されますが、この混乱に乗じたヨムートは暫くの間ヒヴァの町を支配します。

しかし、1747年にナーディル・シャーの甥であるアリー・クリー・ハーンによって追放され、バルカン地方に移動しました。

バルカン地方ではテッケと争い、争いに敗れたテッケは東のアハル地方に逃れます。

更にヨムートは1767年と1804年にヒヴァに侵攻し、これを占領しました。

かくの如くに強力な部族であったヨムートですが、その後は離散して衰退してゆきます。

イラン国内のヨムートは1924年に独立運動を起こしますが、イラン国軍によって鎮圧されました。

 

サリク:

トルクメニスタン南東部のグシュギ、タグタバザル、ヨロテン及びムルガプの中心部に暮らす部族。

15世紀には他のトルクメン部族に同じくカスピ海東岸のマンギシュラク半島にいましたが、その後バルカン山脈付近に移動しました。

1616年、ヒヴァ・ハン国第12代君主のアラブ・モハンマドの子ハバスチとイルバルスが、サファヴィー朝のシャー・アッバス1世の力を借りて反乱を起こし、アラブ・モハンマドは退位、殺害されました。

このときサリクは、バルカン・トルクメンとともにテッケ、ヨムートと連合して反乱を鎮圧。

イスファンディアル・ハーンを即位させます。

その後、東に移動し始めたサリクはメルヴでサロールを破り、更にパンデとタグタバザルに追撃して19世紀半ばまでにパンデを完全な支配下に置きました。

 

エルサリ:

トルクメニスタン東部をおもなテリトリーとする部族で、約100万人がトルクメニスタンに居住しているほか、アフガニスタンに約90万人、パキスタン、トルコ、イランなどの周辺諸国とその他の国々に約20万人がおり、総人口は約210万人と言われています。

エルサリはオグズ直系の子孫で、のちにセルジュク朝を興すこととなるセルジュク家もエルサリであったとする説がありますが、オグズの24氏族について記したマフムード・カシュガリーの『テュルク諸語集成』にも、ラシッド・ウッディンの『集史』にもエルサリの名は登場しません。

伝承によると、13世紀後半から14世紀にエルサリ・ババとよばれる人物が現れてマンギシュラク半島とバルカン地方のすべてのトルクメンを統合したとされ、彼こそがエルサリの始祖であるとも言われます。

由来についてはともかく、サファヴィー朝のアッバス1世のもとを離れたウズベク王子、モハンマド・クリーとアラブ・モハンマドがヒヴァに戻る途上、カラクム砂漠北西のウズボイ川で数百名のエルサリに遭遇していることから、16世紀以前には他のトルクメン部族同様、マンギシュラク半島にいたことは確実でしょう。

17世紀に入るとエルサリは南東に向け移動し、アムダリア川上流域に辿り着きました。

 

チョドル:

トルクメニスタン北部のアムダリア川流域をテリトリーとする部族。

オグズの24部族のうちの一つとされ、アブル・ガージーが著した『トルクメンの系譜』には、チョドルは2世紀頃からカスピ海沿岸に住んでおり、11世紀にはマンギシュラク半島に移住したとあります。

また同書には、1525年から35年にかけてソフィアン・ハーンの支配下で内サロール(イシュキ・サロール)に属していたことが記されています。

17世紀に入るとカザフスタンのトルコ系部族カルマックの侵攻を受けるようになり、1670年頃からチョドルの一部はコーカサス北部へと移動を始めました。

その中からヒヴァの北方に進出する者たちが現れ、彼らの招きによってチョドルは東進したと言います。

18世紀、チョドルはヨムートと同盟しヒヴァに侵入して略奪を繰り返すようになりました。

度重なるトルクメンの侵入に手を焼いたヒヴァ・ハン国のモハンマド・ラヒーム・ハーンが1810年にヒヴァ軍とクングラート軍を統一すると、チョドルはマンギシュラク半島に逃げ帰ります。

1830年と1849年に北部のトルコ系部族アダイ・カザクとの戦いに敗れたチョドルは、マンギシュラク半島から再びヒヴァに向かって東進し、ポルシ(現在のカリニン)とウルゲンチに移住。

1855年から翌年にかけて、ヒヴァ・ハン国のクトルフ・ムハンマド・ムラド・ハーンはテッケとサリクの力を借り、ヨムート、チョドル、イムレリ連合軍を倒しました。

 

その他の部族:

ギョクレン

アラバチ

カラダシュリ

イグディルとアブダル

トルクメンの生活形態

17世紀半ばまでは遊牧生活を送っていましたが、カスピ海東岸からバルカン山脈やアム川下流のホラズム地方に移動した頃より農業を行うようになり、半遊牧化したと言われます。

しかし、灌漑設備の不十分な乾燥地帯における農業と畜産業だけでの生活は苦しく、周辺の町や村に侵入しては略奪を繰り返しました。

またトルクメンの奴隷貿易は有名で、彼らに攫われた人たちはヒヴァやボハラの奴隷市場に運ばれ、トルコ系部族やカザフ人に買われていったと言います。

1924年にトルクメン・ソビエト社会主義共和国が成立し、ソ連の傘下に入ると部族単位で割り当てられたコルホーズで、綿花、葡萄、野菜などの栽培や乳牛の飼育等が行われるようになりました。

同じ血統の一族からなるトルクメンの集落(アウル)では、夏の住居として「ユルタ」と呼ばれる被覆型のテントが使用されます。

ユルタはトルコ・モンゴル系部族に見られるもので、柳の枝でできた骨組みにフェルトを着せてロープで固定したタイプ。

寒さを防ぐため開口部を小さくした作りが特徴です。

トルクメンの言語

母語は、トルコ語やアゼルバイジャン語と同じオグズ語群に属するトルクメン語。

トルクメニスタンではロシア語とともに公用語になっていますが、支族ごとに方言を持つため、標準語としてテッケ族の方言が採用されています。

元来トルクメン語に文字はなく、1940年になってからロシア語に倣ったキリル文字が使われるようになりました。

1991年にトルクメニスタンが独立してからはラテン文字が使用されています。

 

トルクメンの風俗

トルクメン絨毯

今日、トルコマン絨毯に使用されるギュルには数十もの種類があるといわれますが、その中で代表的なものについて解説します。

テッケ・ギュル(ギュシュリー・ギュル、ゴリー・ギュル)

テッケ・ギュル(ギュシュリー・ギュル、ゴリー・ギュル)

トルクメニスタン南部を主なテリトリーとするテッケ族のギュル。
ギュシュリー・ギュルあるいはゴリー・ギュルとよばれるギュルのひとつですが、ギュシュリー・ギュルは「ギュシュル」(鳥)に、ゴリー・ギュルは「ゴル」(花)に由来する名です。
この種のギュルの中ではもっとも男性的で、ギュルを4分割する黒い縦横線が通っているのが特徴。
テッケ・ギュルはイランやパキスタン、ウズベキスタンで産出される絨毯にも多く用いられていますが、よく聞く「象の足」を形どったという話は全くの事実無根です。

サリク・ギュル(ギュシュリー・ギュル、ゴリー・ギュル)

サリク・ギュル(ギュシュリー・ギュル、ゴリー・ギュル)

トルクメニスタン南東部を主なテリトリーとするサリク族が用いるギュル。
テッケ・ギュルに似ていますが、中心を縦横断する黒線がなく、全体的にややマイルドな雰囲気です。
こちらもゴリー・ギュルあるいはギュシュリー・ギュルに分類されるギュルのひとつ。

エルサリ・ギュル(ギュシュリー・ギュル、ゴリー・ギュル)

エルサリ・ギュル(ギュシュリー・ギュル、ゴリー・ギュル)

トルクメニスタン東部を主なテリトリーとするエルサリ族が用いるギュルのひとつで、いくつかの派生形があります。
ゴリー・ギュルあるいはギュシュリーのギュルの中ではもっとも垢抜けた印象。
アフガニスタン北部のアンドホイ周辺で製作されるエルサリ族の絨毯には、テッケ・ギュルを簡素化したようなギュルも見られます。
エルサリ族はテッケ族に次ぐトルクメン第二の勢力。

タウクナスカ・ギュル

タウクナスカ・ギュル

トルクメニスタン北部を主なテリトリーとするチョドル族の紋章で、タウク・ナスカは「鶏文様」の意。
ギュルの中心を囲む文様が鶏に似ているとしてそう呼称されますが、鶏というより馬やロバのような四つ足の動物に見えます。
エルサリ、ヨムート、チョドル、アラバチのトルクメン各部族の他、ウズベキスタンやカラカルパクスタンで産出される絨毯にも使用されています。

オムルガ・ギュル

オムルガ・ギュル

サリク族の他、エルサリ族もこれを用いています。
エルサリ・ギュルやタウク・ナスカ・ギュルに似ていますが、中に配されているのがリーフになっているのが特徴。

サロール・ギュル(マリー・ギュル)

サロール・ギュル(マリー・ギュル)

サリク族が用いるギュルの中では、もっとも多く目にするのがこれ。
「サロール」はトルクメニスタン東部をテリトリーとし、かつてはトルクメンの一大勢力であったサロール族に由来するもの。
1832年にカジャール朝ペルシャとの戦いに敗れたサロール族は、その後テッケ族やサリク族との領地争いにも敗れ弱体化しました。
サリク族のテリトリーであるアフガニスタン南東部で最大の町マリーの名をとり、マリー・ギュルとよばれることもあります。

ジュヴァル・ギュル

ジュヴァル・ギュル

ジュヴァルは寝具や衣類などを収める大きな袋のこと。
ジュヴァル・ギュルはジュヴァルだけでなく、サリク族やヨムート族のメインラグの他、アフガニスタンのマウリ族が製作する絨毯やパキスタンやインド北部で産出される絨毯にも用いられています。

ハルチャンギ・ギュル

ハルチャンギ・ギュル

エルサリ族の分派であるキジル・アヤク族が用いるギュルのひとつ。
ハルチャンギは「蟹」の意ですが、それに似ていることから付せられた名で、蟹を意匠化したものではありません。
キジル・アヤク族の名は「赤い頭」を意味し、かつて彼らが着用していた赤い帽子に由来するもの。
同じくエルサリ族の支族であるベシル族とともに、アム・ダリア中流域をテリトリーにしています。

エルトマン・ギュル

エルトマン・ギュル

チョドル族の他、エルサリ族の支族であるキジル・アヤク族やチョボシュ族が用いるギュル。
エルトマンは19世紀のドイツ人画家、ヨハン・エルトマン・フンメルに由来し、彼の作品にこのギュルを織り出した絨毯が描かれていることから、そう呼称されています。

ヨムート・ギュル(イーグル・ギュル)

ヨムート・ギュル(イーグル・ギュル)

トルクメニスタン北部から西部にかけてを主なテリトリーとするヨムート族が用いるギュルのひとつ。
鷲が羽を広げたように見えることからイーグル・ギュルともよばれます。

ケプセ・ギュル

ケプセ・ギュル

ヨムート族が用いるギュルのひとつ。
ヨムート・ギュル、ディルナク・ギュルと並び、ヨムート族の絨毯には見かける機会が多いギュルです。

Cギュル

Cギュル

ヨムート族が用いるギュルのひとつ。
「C」の形をした文様が配されていることから、Cギュルと俗称されます。

セラーテッド・ロゼット・ギュル

セラーテッド・ロゼット・ギュル

ヨムート族が用いるギュルのひとつで、ケプセ・ギュルとCギュルとを組み合わせたようなデザイン。
ロゼットは花の正面形を図案化したものですが、セラーテッド・ロゼットとは「ノコギリ状のロゼット」のことです。

ディルナク・ギュル

ディルナク・ギュル

ヨムート族が用いるギュルのひとつですが、エルサリ族の一部もこれを用いています。
鉤状の飾りが付いた菱形は「蠍」を意匠化したとする説があるものの、確証はありません。

バクチアリ

バクチアリ

バクチアリの概要

バクチアリは、イラン中央部のチャハルマハル・バクチアリ州を中心に、イスファハン、ルリスタン、ブーシェフルの各州の一部をテリトリーとする部族連合。

既に大半が定住民となっていますが、少数がイスファハン西方のザグロス山中にある夏の宿営地(サーディルまたはヤイラク)とフゼスタンにある冬の宿営地(ガルムシールまたはキシュラク)との間を移動する遊牧生活を送っています。

ペルシャ語系ルリ語のバクチアリ方言を話し、人口は推定30万から40万人。

もとはルリの中でも大ルリ(ルリ・ボゾルグ)に属する一部族でしたが、16世紀のサファヴィー朝期に大ルリと袂を分かちました。

一説によるとバクチアリは、フェルドーシーの『シャーナーメ』(王書)に登場する伝説的英雄、フェリダンの子孫とされます。

また、アケメネス朝を興したキュロス2世直系の子孫とも言われますが定かではありません。

バクチアリの名はペルシャ語のバクト(幸運)とヤール(仲間)、すなわち「幸運の持ち主」の意で、これは彼らが過酷な自然を克服して遊牧生活を送っていたことに由来するものと考えられるでしょう。

今日、家畜の移動はトラックで行われるようになっています。

 

バクチアリは主にハフト・ラング、チャハル・ラングの二つの集団からなり、数で勝るハフト・ラングはババディ、ディナルニア、ドゥラキ、バクチアルバンドの4部族により構成されています。

チャハルはペルシャ語の4、ハフトは8ですが、かつて両集団はラング=負担する税の額が異なっていたと言われ、そのため争いが絶えず、二つの部族がホセイン・ゴリー・ハーンによって部族連合として統一されるのは1867年のことでした。

立憲革命の際には立憲側につき、ハフト・ラングのハーン(集団長)であったサルダル・アサドとその兄弟ナジャフ・ゴリー・ハーンの指揮のもと、バクチアリ部隊はカジャール朝の都テヘランを包囲。

モハンマド ・アリー・シャーを退位させ、ナジャフ・ゴリー・ハーンが暫定首相の座に就きました。

 

サルダル・アサド(1856~1917年)とナジャフ・ゴリー・ハーン(1846~1930年)

この一件はテヘランの支配階層にバクチアリの力に対する危惧を植え付けることになります。

1925年にパフラヴィー朝を興したレザー・シャーは、バクチアリのテリトリー内で油田が見つかったことから自治を認めず、部族連合内のハーンであったモハンマド ・レザー・ハーン(のちにサルダレ・ファテフ)を政府の要職に迎え、中央に従わせる策を採りました。

以後バクチアリの政権への影響力は増し、やがてモハンマド ・レザー・ハーンの息子シャープール・バクチアリが首相に就任するに至ります。

シャープール・バクチアリ(1914~1991年)

バクチアリ絨毯

バクチアリ絨毯は主にバクチアリの定住民によって製作されており、ダブル・ウェフトの高級品とシングル・ウェフトの低級品とに大別することができます。

チャハルショトル産

シャハレコレド産

サマン産

シャラムザー産

ダブルでウェフトの高級品はシャハレ・コレド、チャハル・ショトゥール、サマン、シャラムザーなどの町で製作されますが、その中でも「ビビバフ」と呼ばれる緻密な織りの作品はバクチアリ絨毯の最高級品として珍重されています。

ビビバフは「お婆さんの織り」の意で、その製作には熟練が必要なことからそう呼ばれるようになったのでしょう。

ビビバフ

一方、シングル・ウェフトの低級品はボルダジ、フェリダン、ベインなどの村で製作されており、値段が安いため実用品として使われるのが通常。

最近では、製作された町に関わらずダブル・ウェフトのものを「サマン」、シングル・ウェフトのものを「ホーリ」と呼ぶようになっています。

ボルダジ産

フェリダン産

ベイン産

バクチアリ絨毯と言えば「ヘシュティ」と呼ばれるパネル・デザインが有名。

ヘシュトは日干煉瓦の意で、それを積み重ねたように見えることからそう呼称されますが、もとはペルシャ式庭園に由来する文様です。

庭園文様はティムール朝・サファヴィー朝に仕えた宮廷画家のビフザドが考案したものとされますが、庭園様式の変化に伴い現在のデザインとなりました。

バクチアリの庭園文様はクムやビルジャンドで製作される絨毯のデザインに用いられています。

17世紀の庭園文様絨毯

ヘシュティの他にはバンディと呼ばれる連続文様や近くのイスファハンに倣ったメダリオン・コーナーのデザインが一般的。

現在に至るまで天然染料が使用されており、赤、青、黄などの原色系を多用した色調はわが国では敬遠されがちながら、ヨーロッパではとても人気があります。

2000年頃からはギャッベ人気にあやり、シンプルな文様の毛足の長い絨毯も製作されるようになりました。

トルコ結びです。

 

シャハレコレド産

ギャッベ風のバクチアリ絨毯

ハムセ

ハムセ

ハムセの概要

ハムセはイラン南西部のファース地方をテリトリーとする部族連合。

その名はアラビア語で「5」を意味しますが、名が示す如くアラブ系ほかの五つの部族の連合体です。

他の部族連合とは成り立ちを異にし、イラン南部で猛威を振るうカシュガイを抑えるため、1861年から62年にかけて、カジャール朝第4代君主であったナセル・ウッディン・シャーの命により、カヴァム・アルモルキ家のもとにアラブ、バハルル、バシリ、イナンル、ナファルの五部族を集めて結成されました。

1930年代に入ると、パフラヴィー朝のレザー・シャーによる定住化政策を受け入れファース州の町や村に定住。

数年後には遊牧生活に戻る世帯が現れはじめますが、1979年のイスラム革命以降、再び定住化が進んでいます。

 

ハムセの組織

総長(イルハン=最高指導者)が五つの部族を統括しており、カシュガイ同様、総長部族支(氏)族家族という階層制度が存在しています。

総長には、その補佐並びに身辺の世話にあたる「ダルバール」という集団が付随。

ダルバールはバシリ族により構成されています。

サファヴィー朝の時代、イスラム教シーア派(十二イマーム派)に改宗した部族民の子孫が大半ですが、一部はスンナ派イスラム教を信仰しています。

ハムセの構成部族

ハムセの構成部族は次のとおり。

 

アラブ族:

ハムセの最大勢力で、人口は約20万人。

ペルシャ語の単語が多く含まれたアラビア語の方言を話します。

アラブ人がペルシャを征服したあとイラン高原に移り住んできたとされますが、

このアラブ系部族は「シャイバニ族」と「ジャバレ族」の二つの支族に分けられます。

シャイバニ族ははじめホラサン地方に定住した後、ファース地方へ移住したといわれます。

ジャバレ族の方はシャイバニ族のあとでファース地方に移り住んできたとされ、ジャバレの名はこの部族の始祖であるシェイフ・ジーナがファースに移り住んだのちシャイバニ族の女性と結婚。

やがて生まれた子供にジャバレと命名したことに由来すると伝えられます。

この部族の製作する絨毯は「モルギ」(ペルシャ語で「鶏」の意)とよばれる鳥文様など、独創的な文様で知られています。

モルギ文様

 

バシリ族:

バシリはペルシャ系の遊牧部族で、ルリ語系の方言を話します。彼らの起源はかつてペルシャ最大の部族としてキュロス2世に従い、アケメネス朝の成立に参加したパサルガデアン族。

ササン朝の時代にはアルデシール1世のもとでイラン南部のカルヤンをはじめとするいくつかの地域に居住するようになり、カリヤン族とよばれるようになります。

バシリの名はこのササン朝の時代に庶民を意味する「ワスタリョーシャン」が「ワスタリー」となり、やがてバシリになったとされますが、アラブ人イスラム教徒による征服の後その支配下に入り、ゾロアスター教からイスラム教へと改宗しました。

バシリ族にはワイシ族とアリー・ミルザイ族の二つの大きな支族があります。

 

バハルル族:

アゼルバイジャンに住むトルコ系部族キジルバシュの分派とされ、その多くがファース地方のダラブ周辺に居住、トルコ語の方言を話します。

ダラブはアケメネス朝のダリウス1世によって築かれたイラン最古の町の一つ。

かつてはダラブ・ゲルド(ダリウスの町)とよばれていました。

バハルル族の一部は14世紀にチャハルマハル・バクチアリ地方のシャハレ・クルド周辺に移住したといわれ、彼らの子孫にはバクチアリやカシュガイとの混血が多くいます。

ほかにアゼルバイジャン地方やホラサン地方、ケルマン地方にも居住。

バハルル族はハムセの中でもっとも織りの細かい絨毯を製作しています。

 

イナンル(アイナル)族:

トルコ系部族であるシャーサバンの分派とされていますが、詳細については明らかではありません。

トルコ語の方言を話します。

 

ナファル族:

カシュガイと出自を同じくするトルコ系部族にアラブとルリの一部が合流したものといわれていますが、この部族についても詳細は不明です。

この部族もトルコ語の方言を話します。

ハムセの生活形態

ハムセの多くは遊牧民ですが、カシュガイ同様に定住化が進んでいます。

テリトリーはカシュガイの東で、遊牧民の冬の宿営地は主にタシュク湖・バクテガン湖の南側。

夏の宿営地はパルヴァル川の東側、タシュク湖・バクテガン湖の北側です。

ハムセの文化

言語:

アラブ族はペルシャ語の単語が多く含まれたアラビア語の方言を。

バシリ族はルリ語の方言、バハルル、イナンル、ナファルのトルコ系部族はトルコ語の方言を母語としています。

 

宗教:

サファヴィー朝の時代、イスラム教シーア派(十二イマーム派)に改宗した部族民の子孫が大半ですが、一部はスンナ派イスラム教を信仰しています。

ハムセ絨毯

ハムセは絨毯のほか、ソマック(綴織)も製作していますが、絨毯はカシュガイ絨毯との類似点が多く、判別が困難なものもあります。

カシュガイ絨毯よりも柔らかく、縦糸に濃茶のウール、横糸に濃茶もしくは赤いウールを使用したものが多いとされるものの、あくまで目安にすぎません。

また、本来カシュガイのものであったとされるトップ・エンド・マークにしても、ハムセもこれを用いているため決め手にはなりません。

カシュガイ絨毯のトップ・エンド・マーク

19世紀に製作されたハムセ絨毯にはとても凝ったデザインで織りも細かく、光沢のあるウールをパイルに用いたきわめて高品質な作品が見られますが、近年のものはそれらに比べると大きく劣ります。

文様としてはモルギ(アラブ族の項を参照)のほか、大小のボテ(ペイズリー)を重ねた「親子ボテ」、モハマラト(ストライプ)などが有名。

ただし、これらの文様は隣接するカシュガイやアフシャルが製作する絨毯にも使われることがあるので、文様だけで判別することはできません。

イラン系のバシリ族は「ペルシャ結び」、バハルル、イナンル、ナファルのトルコ系各部族は「トルコ結び」を用いるのが本来ですが、部族を超えての結婚も珍しいことではなくなった今日においては、混用されているのが実際です。

  

バルーチ

バルーチ

バルーチの概要

バルーチはイラン系のバルーチ語を母語とする遊牧系部族で、人口は推定800~900万人。

その多くは、パキスタン南西部からイラン南東部に跨るバルーチスタンと呼ばれる地域に居住していますが、一部はアフガニスタン北西部、トルクメニスタンにもおり、パキスタンでは人口の約3.6%、イランとアフガニスタンでは約2%を占めています。

バルーチという名の由来については諸説あり、バビロニアの王と神ベルスに由来するとする説、カスピ海とヴァン湖に挟まれたバラシガンに住む「バラシク」という名の部族に由来するとする説、サンスクリット語で強さを意味する「バル」と壮大を意味する「オチ」に由来するとする説等があります。

勇猛果敢で忍耐強く、忠誠、もてなしを美徳としており、イスラム教スンニ派を信仰していることで知られています。

ただし、ホラサン地方に居住するバルーチについては周囲のイラン人に同化し、イスラム教シーア派を信仰している者が大半です。

バルーチの歴史

バルーチの起源については明らかではありませんが、バルーチ語がササン朝初期のペルシャ語やパルティア語、クルド語との関係が認められるインド・ヨーロッパ語族に属するものであることから、アーリア民族の一部であると考えられています。

研究者によれば、遠くは中央アジアのスィール川とアム川とに挟まれた地域に暮らしており、人口増加などの理由から、紀元前2000年頃にバルフ周辺に移動した集団があり、彼らは現在のイランの東部と北東部に定住。

更にこの集団の一部はのちにイラン西部に進出し、いくつかの部族に分かれたとされます。

バルーチは644年にアラブ人によって征服されたケルマン地方に居住する遊牧民として初めて歴史に登場します。

その後、セルジュク朝がホラサンとシスタンに侵攻しバルーチは大きな被害を受けて東進を始めますが、ガズニ朝とのハビスの戦いで大敗を喫し、今日バルーチスタンとよばれる地域に逃れました。

インド洋に面するマクラーンでジャット族、更に北のブラーフ族を糾合してシンドからパンジャブに進出。

ムガール朝を樹立するバーブルによるデリー攻略に参加しました。

ヤラメ

ヤラメ

イスファハン南方のアリアバドやタルカンチェの西に暮らす部族。
隣接するバクチアリと同じくルリから派生した部族とみられていますが、カシュガイとの共通点も多いため、カシュガイから派生したとする説もあります。

ヤラメが製作する絨毯はトライバルラグとしては質が高く、鉤状の飾りを持つ菱形のメダリオンを配したカラフルな色彩が特徴です。
定住民となって久しいため、サイズのヴァリエーションは豊富。
19世紀の初めにはすでに優れた絨毯を製作していたようですが、古いヤラメ絨毯には黄色や緑色が多用されており、現在の色調とは異なります。
なお、ヤラメには「恋人」の意味があると言われています。

ヤラメ ヤラメ

ルリ

ルリ

ルリの概要

イラン中西部のルリスタン州、チャハルマハル・バクチアリ州、クーフギール・ブーエル・アフマド州を中心に、ハマダン州、フゼスタン州、イラム州、ファース州、ブーシェフル州にかけて暮らす遊牧系部族で、一部は国境を超えたイラク中東部にもいます。

人口は推定200万人。

そのうちイラクのルリは6万3000人と言われています。

7世紀にシリアから移り住んだとする説があるものの、一般にはこの地域土着の部族であると考えられており、クルドと密接な関係があるとされています。

ルリ(ルル)の名は10世紀の書物に初めて登場することから、その頃クルドから分かれたのではないかと言われます。

なお、ルリは森を意味する「レル」もしくは「リル」に由来するとする説があります。

ルリの歴史

ルリの居住する地域には中期旧石器時代から人が住んでいた痕跡が見つかっていますが、ルリは紀元前22世紀頃にこの地を支配したエラム人の末裔であると考えられています。

エラム人は前1155年にバビロニアのカッシ-ト人を滅ぼして最盛期を築くものの、前639年頃メソポタミア北部に興ったアッシリア王国によって滅ぼされました。

それからササン朝期までの記録はほとんどありませんが、7世紀にアラブ人がイラン高原に侵攻すると、他の部族同様ルリもその支配下に入ることになります。

932年、ファース地方にブワイフ朝が興り、946年にはアッバス朝のカリフからイラン・イラクの統治を奪いました。

この頃には既にルリの暮らす地域は「ルリスタン」(ルリの国)と呼ばれるようになっていたと言われます。

ルリスタンで出土した青銅製の槍(前10世紀頃)

その後、ルリスタンは小ルリ=現在のルリスタン州とイラム州を中心とする地域と、大ルリ=チャハルマハル・バクチアリ州、クーフギール・アフマド州を中心とする二つに分断されました。

11世紀に入りイラン高原がセルジュク朝の支配下に入り、12世紀にはトルクメン人がクーフギールに入植するも、大ルリ、小ルリはともに居住地域における勢力を維持し続け、1155年には大ルリがホルシディ朝(アタベガーニ・ルリスタン)を興します。

ホルシディ朝は1184年に小ルリを支配下に置き、ディズ川からシラーズに至る広大な地域を支配しますが、1423年にティムールにより滅ぼされました。

ホルシディ朝の崩壊は大ルリの結束と繁栄を終わらせ、かつての領土は群雄割拠の時代へと移ります。

ルリスタン

1501年にティムール朝を倒してサファヴィー朝が成立すると、大ルリは北部のバクチアリ、中部のクーフギール、南部のママサニの三つに分割されました。

サファヴィー朝は王朝の成立に貢献したアフシャルのハーンにクーフギールの統治権を与えましたが、たび重なるルリの反抗により、統治権を放棄します。

一方の小ルリはホラマバードを拠点にサファヴィー朝に対しては服従の姿勢を示していました。

小ルリのシャー・バルディ・ハーンはサファヴィー朝の往生を妃に迎え、姉妹をサファヴィー朝第5代君主アッバス1世に嫁がせます。

そして、ホルシディ朝の君主アタベグの末裔と婚姻関係にあったホセイン・ハーンはアッバス1世からアタベグの後継者として認められ、1596年に地方自治政権であるワリ朝を興しました。

ワリ朝はその後1929年まで続きます。

1722年、アフガン人がイラン高原に侵攻すると、サファヴィー朝は小ルリのアリー・マルダン・ハーンを総司令官に任命して防戦するも、敗れて消滅しました。

1736年にアフシャル出身のナーディル・シャーがアフシャル朝を樹立。

ナーディル・シャーは小ルリとバクチアリに攻撃を仕掛け、数名の族長を処刑するとともに数千人のバクチアリをホラサン地方に追放しました。

ナーディルの死後、小ルリに属するザンド族のカリム・ハーンはアフシャル朝を倒してザンド朝を興します。

シラーズを都に定めると小ルリの数千の家族をシラーズに移住させました。

カリム・ハーン・ザンド(1750~1779年)

トルコ系遊牧部族のカジャール族によってザンド朝が倒されると、ファースのルリはイラン中央部に追放され、クーフギールとママサニはファースに併合。

小ルリはルリスタンとポシュト・クーとに分けられ、ルリスタンは中央政府の直轄地となります。

カジャール朝への服従を拒んだルリのハーンたちは処刑されますが、それでも抵抗は収まらず、1896年にナセル・ウディン・シャーが暗殺されると、カジャール朝はルリスタンに対する支配権を失いました。

1925年に興ったパフラヴィー朝のレザー・シャーは中央集権を目指し、それに抵抗するルリを弾圧しました。

小ルリの自治政府であったワリ朝はイラン国軍との戦いによって崩壊。

武装解除された後、指導者たちは投獄されるか遠島に処され、いくつかの部族は強制移住させられました。

イラムとルリスタンは軍の統治下におかれ、伝統衣装とブラック・テントの使用さえも非合法化。

これによりルリのアイデンティティは著しく損なわれました。

ルリの組織

ルリは部族(イル)の連合体で、各部族はいくつかの支族(オウラッド)により構成されています。

支族は更に複数の一族によって構成されており、ピラミッド型の階層社会が存在しています。

各部支族は世襲制の族長(ハーン)により統治されていて、族長は配下の一族に土地や家畜を貸し出す見返りに、年貢を得ます。

ルリの生活形態

約半分が牧畜を営む半遊牧民であると言われます。

夏の間は遊牧生活を送り、10月から4月にかけては低地の牧草地にある住居で暮らします。

定住化が進んでおり、定住民は農業を営む者が大半。

主な作物は大麦と小麦です。

ルリの遊牧民

ルリの言語

ハマダン州、ルリスタン州北部に居住するルリはペルシャ語の方言であるルリ語を話しますが、ルリスタン州南部及びチャハルマハル・バクチアリ州、クーヘギール・ブーエル・アフマド州、フゼスタン州、イラム州、ファース州、ブーシェフル州のルリはクルド語に似たラキ語を話します。

ルリ絨毯

ルリ絨毯が集積される町は主に三つあります。

ホラマバード:

ホラマバードはルリスタン州の州都で、住民の大半がルリ。

ホラマバードで集積されるルリ絨毯はボテなどの複雑なオールオーバー・デザインが多く、やや控えめな配色が特徴です。

ベフベハン:

ベフベハンはフゼスタン州南東部、ルリスタン州との州境近くにある町。

ベフベハンに集積されるルリ絨毯の多くはジオメトリックなメダリオンを配したデザインが特徴。

縦横糸には木綿が使用されたものもあります。

シラーズ:

 

ギャッベ:

ルリもカシュガイ同様、ギャッベと呼ばれる普段使いに供する敷物を製作しています。

ルリが伝統として製作してきたギャッベは、現在「ルリ・バフト」として売られているギャッベとはまったくの別物です。

ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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