著名なペルシャ絨毯の意匠師|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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アクバル・メヒディー(イスファハン)

アクバル・メヒディー(イスファハン)

アクバル・メヒディーは1954年、イスファハンに生まれました。
11歳から絨毯のデザインを学び始め、1968年に中等教育を終えるとイスファハン芸術学校に進み、ジャバッド・ロスタム・シラージーらから細密画や装飾工芸を学びます。
しかし芸術学校の学費は高く、中流階級の家に生まれた彼は2年で同校を中退することを余儀なくされました。

そんな息子を父親は絨毯意匠師であるラフマド・シャードマンに預けます。
5年間の修行を終えたアクバルは1976年に独立。
イスファハンの絨毯バザールからほど近い場所にデザイン工房を開設しました。
以後、細密画や装飾工芸のデザインを採り入れた斬新なデザインを考案し続け、のちに自ら絨毯製作に乗り出します。

彼の絨毯に向ける情熱はデザインのみにとどまらず、製作工程のすべてに及びました。
天然染料のみによって染めあげられた最高級の素材を緻密無比なる織りをもって仕上げたその作品により、アクバルは2001年に彼は第1回クリスタル・ショルダー・フェスティバルでデザイナー賞を受賞。
イラン・カーペット・フェスティバルでは3年連続で1位を獲得するという快挙を成し遂げました。

イラン国立カーペット・センターへ技術協力するとともにイスファハン州芸術家協会の理事としても活動する彼が、これまで参加したイラン国内外における展示会は70回前後に及びます。
2007年には「イスファハン・メヒディー」がイラン特許庁に商標登録されました。

【アクバル・メヒディーの作品】を見る。

アッバス・アリー・アラバフ(タブリーズ)

アッバス・アリー・アラバフ(タブリーズ)

アッバス・アリー・アラバフは1918年、タブリーズに生まれました。
父親のハサンはタブリーズに絨毯織りの工房を持っており、学校における初等教育に加え、ファゼルという人物が営む学習塾で外国人教師らから外国語などを学んだアッバスは、11歳から父親のもとで働き始めます。
彼は父親から意匠師としての技術を教わるとともに、有名画家の作品や世界の美術館の画集から着想を得ようとしました。
とりわけミールモスールの作品はアッバスに大きな影響を与え、イランの伝統を残しつつも斬新な作風を形成する源になったとされます。

1938年、20歳になったアッバスは父親から工房の運営を任され、絨毯製作と国内外における取引のすべてを統括するようになりました。
1949年に父親が他界すると、以後長男であったアッバスは名実ともに一家の長として母親と6人の弟たちの生活を支えてゆくことになります。

そんな彼は、イランの手織絨毯はイラン伝統の染色と技術とをもって製作され世界の市場に供されるべきであるとの信念を抱いており、合成染料が普及した世の中にあっても、自身が製作する絨毯には天然染料で染色された糸のみを用いました。
また、自らの工房で作成した意匠図を他の工房に売り渡すことはありませんでした。
アッバスの作品には、イランの細密画やタイル装飾の文様を独自の感性でアレンジしたユニークなものが多く見られますが、この時代に迎合しない強い個性こそが彼の持ち味であり、見る者を惹きつけて離さない作品の血流であるといえるでしょう。

タブリーズの絨毯界にあって異彩を放ち続けてきたアッバスは2007年に89歳で永眠し、現在は息子のモフセンが工房を引き継いでいます。

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アフサネ・モディール・アマーニ(テヘラン)

アフサネ・モディール・アマーニ(テヘラン)

アフサネ・モディール・アマーニは1970年、テヘランに生まれました。
1990年に彼女はイスファハン芸術大学に入学し、手工芸品とテキスタイルについて学びます。
『イラン部族の馬の織りと編みの装飾』と題した卒業論文を書きあげたアフサネは卒業後、機械織絨毯メーカーであるアルボルズ・カーペット・コーポレーションの意匠師となりました。

在職中の1994年にテヘランのハフト・サマール・ギャラリーにて初の個展を開催。
1997年にアルボルズ・カーペット・コーポレーションを退職し、翌年からはマヘスタン・カーペット・コーポレーションでデザイン部門のマネージャーを務めるとともに、テヘランの国際展示場で開催されるイラン手織絨毯展示会に自らの作品を出品し始めました。

2000年にはドイツのハノーバーで開催されるエキスポ2000に出展し、翌年に開催されたエキスポ2001ではプロダクト・デザイン賞を受賞。
その名を海外にも知られることになった彼女は、タギー・キャロスタミの本の挿絵を描いたり、テヘランのインド大使館で行われるチャリティーバザールに出展したりと、精力的に活動し続けています。

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アフマド・アルチャング(イスファハン)

アフマド・アルチャング(イスファハン)

アフマド・アルチャングは1914年、イスファハンに生まれました。
父親のモラー・モハンマド・ホルタマニは聖職者で、彼は4歳のアフマドを学校に通わせます。
初等科5年生のとき、マジュリシ校長は画才に優れたアフマドにゴラム・ホセイン・イスラミの絨毯工房を紹介。
実際に工房で作品を目にしたアフマドはそれに魅了され、製織と意匠について学びはじめました。

1934年、20歳になった彼はイスファハン市の考古学部長であったアンドレ・ゴダールが審査員長を務めるナグシェ・ジャハ-ン広場復元のためのタイル・デザインのコンペティションで優勝します。
それをきっかけに以後タイル装飾の分野においてキャリアを積み、宮殿や文化財の修復に携わりました。

そんなアフマドの名はイスファハンの絨毯作家たちの耳にも届き、やがてメヒディ・ハギーギやシュレシ、アンサリー、ブラスール(フランスのエージェント)らか意匠図作成の依頼が届くようになります。
タイル装飾で培った優美なパルメットと流麗なイスリムを複雑に交叉させた彼のデザインはたちまちのうちに国内外の人々を魅了し、後のイスファハン絨毯の模範となりました。

アフマドは1990年に世を去りましたが、そのデザイン・ポリシーはアッバス・カルバシオン、アクバル・ミナイアン、ラフマトッラー・シャードマンらの弟子たちにより受け継がれています。

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アブドルハミド・サナートネガル(マシャド)

アブドルハミド・サナートネガル(マシャド)

アブドルハミド・サナートネガルは1908年、ケルマンに生まれました。
12歳の時、家族はマシャドに引越し、彼は父親とともに絨毯意匠師としての活動を始めます。

名のある画家や意匠師に師事することのなかったアブドルハミドでしたが、仕事に対する情熱には並々ならぬものがあり、やがて彼が作成した意匠図は当時マシャドで活躍していたアモグリやマフマルバフ、サーベルらに採用されました。

1931年、レザー・シャーの宮殿に敷くための絨毯がアモグリに発注され、アブドルハミドはその主なデザインを描くことになります。
これらの絨毯にはシェイフ・サフィやアフシャン、イスリミといったサファビー朝期に製作された絨毯の文様が用いられました。

アフマドハーン・シャーロキ(ケルマン)

アフマドハーン・シャーロキ(ケルマン)

生没年不詳。
ケルマンにおける絨毯産業の草創期に活躍したシャーロキ一族の一人で、モフセンハーン・シャーロキの甥にあたります。

イースタン・ラグやOCM(オリエンタル・カーペット・マニュファクチャーズ)がケルマンに進出する前から絨毯意匠師として活動していましたが、外国企業が進出してからは意匠の権利を譲渡し、それらの企業のために意匠図を作成しました。
アフマドハーンの作品としてはミフラブ文様の絨毯が知られています。

アフマドハーン亡き後は、長男のハシェムハーン・シャーロキが工房を引き継ぎました。

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アリー・アシュラフ・カシャーニ(テヘラン)

アリー・アシュラフ・カシャーニ(クム、カズビン)

アリー・アシュラフ・カシャーニは1901年、カシャーンに生まれました。
小学校を卒業すると装飾工芸に関心を抱きはじめ、やがてその興味は絨毯へと発展してゆきます。

14歳から18歳までの4年間、ナセル・モスタファビ(モハンマド・タギー・モスタファビ)のもとで絵画と点描とを学び、更に1年間、ミールザ・マフムードハーン・モスーリに絨毯の意匠について学んだ彼はテヘランに行き、当時イラン各地に工房を持っていたイースタン・ラグ社で意匠師として働きました。

その後、絨毯商のミールザ・メヒディ・ジャバーヘリーの協力を得てクムにデザイン工房を開設。
半年間クムで活動した後、カズビン郡長であったリサーン・アッサプルの招待を受けてギラーンに行きます。

ギラーンでは絨毯意匠の改良に努め、1929年までにいくつかの工房を開設しました。
1938年、彼は美術工芸家協会の会員となり、装飾工芸の指導にあたるとともにサーダバード宮殿の絨毯と室内装飾のデザインを手がけ、その意匠図のほとんどはイラン国立美術館に収蔵されています。
アリー・アシュラフは1982年に亡くなりました。

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アリー・イブラヒミ(テヘラン)

アリー・イブラヒミ(テヘラン)

アリー・イブラヒミは1903年、テヘランに生まれます。
彼は幼少期から絵を描くことに大きな興味を持っており、やがて絨毯の意匠図を描き始めたアリーは1930年に商業省で働き始め、翌年には芸術局の正式な絨毯意匠師となります。

彼は絨毯こそが手工芸品の頂点に位置するものであると考えており、絨毯を通してイランという国を世界にアピールできると主張しました。
そんなアリーの思いは寝ても覚めても意匠図の作成に向けられ、やがてその情熱は人々に認められることになります。

1936年、彼はソフィアバード宮殿の壁画の修復を依頼されました。
その後、彼は政府のお抱えとなり、陸軍の印刷所で勤務するとともに、シャーの命により芸術省でも働くようになります。

彼は1940年まで陸軍の印刷所にいましたが、翌年からはかつて芸術局であったイラン芸術アカデミーの絨毯部門で再び意匠図を描き始めました。
仕事の合間にはバイオリンを奏で、サバのもとで音楽を学んだアリーは伝統的文様だけにとどまらず、詩や自然、絵画や音楽の世界をも絨毯に込めようとしました。
1954年没。

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イーサー・バハードリー(イスファハン)

イーサー・バハードリー(イスファハン)

イーサー・バハードリーは1905年、アラク地方のボズチャルという小さな村に生まれました。

幼少期より芸術に興味を抱いていた彼は、高等教育を終えた後、父親の援助を受けてテヘランに行き、カマル・アルモルクが営むムスタザルフェ芸術学校に入学。
在校中はホセイン・ターヘルザデ・ベフザードから細密画を、イスマイル・アシュティアニから古典絵画、遠近法などを学ぶとともにイスファハンに行き、歴史的建造物の絵画、漆喰、タイルについて研究しました。

同校を卒業後、テヘランの美術音楽院に雇われ、1936年にイーサーの提案によってイスファハン美術音楽院が開設立されると、その校長となります。
以後30年間校長の職にあり、多くの芸術家たちを育てました。

1966年、彼はイスファハン・インダストリーズの総局長となりますが、2年後に退職。
その後はフランスのパリで娘と暮らし、81歳となった1986年、パリで没しました。

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ジャバッド・ロスタム・シラージー(イスファハン)

ジャバッド・ロスタム・シラージー

ジャバッド・ロスタム・シラージーは1919年、イスファハンに生まれました。
ジャバッドが5歳のとき、彼の祖父は新年(ノールーズ)のお年玉として色鉛筆を贈りますが、それは彼のアートへの興味を沸き立たせるものとなります。
両親は5歳のジャバッドをワジールザデという画家のもとに通わせ、2年間、絵画の基礎を学ばせました。
ジャバッドはまた、イスファハン旧市街のジョルファ地区でティクランという人物が主宰する絵画教室に通いました。

神学校の6年の課程を5年で終了した彼は1935年にサーディー高校に進みますが、その翌年に開設されたばかりのイスファハン芸術学校に入学します。
同期にはセイエド・ジヤーウッディン・イマーミやアッバスアリープール・セヤーらがおり、ジャバッドは同院で5年間、イーサー・バハードリーのもとで細密画を学びました。

美術音楽院を優秀な成績で卒業した彼はテヘラン大学芸術学部の前身であるテヘラン大学音楽院に進み、アリー・モハンマド・ヘイダリアン、モフセン・ファローギ、アフタンダリアンらから薫陶を受けました。
時を同じくして、ジャバッドはイスファハン細密画展に出展し1位を獲得しました。
これにより半年間ヨーロッパに留学。
イギリス、フランス、オランダ、イタリアを回り絵画を学びました。
イギリスでは同国に残された古いペルシャ絨毯の文様を描き、各国の美術館を訪れては中国や日本の作品に触れ、感性を磨きます。

帰国後はイラン帝室御用達の工房で短期間意匠師として働き、学費に当てました。
1943年、ジャバッドはイスファハン美術音楽院長であるイーサー・バハードリーの申し出を受け、文化芸術省の職員となり、約30年間多くの芸術家たちを育てました。
1975年に退職後もデザイン、細密画、教育の分野で活動を続け、2005年に亡くなりました。

彼は生涯において300点以上の細密画を作成し、彫刻、象嵌細工、その他絵画やタイルの修復などにおいても傑出した作品を残しています。
絨毯では国会議事堂に敷かれている一辺が11メートルの「バハレスタン」と名付けられた作品がとりわけ有名です。

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ジャーファル・パークダスト(テヘラン)

ジャーファル・パークダスト(タブリーズ)

ジャーファル・パークダストは1931年、タブリーズに生まれました。
彼は子供の頃から絵を描くのが好きで、絨毯織りに加えて染色を学びます。
18歳から非凡な才能を発揮した彼は、1963年にイラン絨毯公社に就職しました。

1969年にはマシャドとサブゼバーに転勤。
1971年にはテヘランでサウジアラビア向けに生産される絨毯の製織に取り組みました。
1983年には公社の事業の一つである絨毯意匠師の養成に貢献し、1987年に退職しました。

退職後も一時的に働き、オマーン王室の注文により公社が製作した世界で2番目に大きな絨毯のデザインにもかかわっています。

彼は2002年に名誉博士号を授与され、大統領から感謝状と芸術賞を贈られました。
またタブリーズ・イスラム芸術大学をはじめとするいくつかの大学で教鞭をとり、名著『絨毯意匠の技法』を執筆しました。
2017年没。

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セイエド・アミール・ホセイン・アフサリ・カシャーニ(カシャーン)

セイエド・アミール・ホセイン・アフサリ・カシャーニ(カシャーン)

セイエド・アミール・ホセイン・アフサリ・カシャーニは1935年、カシャーンの工芸家の家に末っ子として生まれます。
兄は意匠師であるセイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニで、アミール・ホセインは幼少期から兄や織物師であった母親の作品を見て育ちました。
少年期から類まれなる才能を発揮し、10歳代の彼が描いた意匠図は叔父のミールザ・ナセロッラー・ナガシュザデの作品と区別がつかないほどであったといいます。

兄とは異なり、名のある絨毯作家や棟梁のもとで修業した経験を持たない彼でしたが、やがてその実力は時の経済大臣アリーナギー・アーリーハーニに認められ、1963年にはパジリク絨毯の復元計画をイラン政府から受託。
アミール・ホセインが製作したパジリク絨毯の復元品は国賓への贈呈品として用いられました。

1970年代にはアケメナス朝期やササン朝期の遺跡、歴史上の人物を織り出した作品を製作。
その配色はイランにおける絨毯製作の歴史上類のない新しいものです。
また、博物館に収蔵されている古い絨毯の復元品に用いられる色糸は、新たな染色法によって古色を出したものでした。
後にアミール・ホセインは中東で最初に操業を始めた機械織絨毯工場である「ラバンド・カーペット・インダストリー」の相談役、カシャーン大学芸術学部の講師、イラン絨毯学会とイラン芸術アカデミーの会員となりましたが、2019年に83歳で世を去りました。

なお、彼の補佐役でもあった一人息子で建築家兼大学職員のセイエド・アミール・マスード・アフサリ・カシャーニは、2003年に自動車事故で亡くなっています。

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セイエド・アボロファテフ・ラッサム・アラブザデ(タブリーズ)

セイエド・アボロファテフ・ラッサム・アラブザデ(タブリーズ)

セイエド・アボロファテフ・ラッサム・アラブザデは1914年、タブリーズに生まれます。
父親は画家でしたが当時のイランはカジャール朝末期の混乱期にあり、失業と貧困から抜け出すため首都テヘランに向かう者はタブリーズでも後を絶たず、ラッサム家もそうした中の一家族でした。

移住後、アボロファテフは兄とともにテヘランの学校に通い始めますが、アゼルバイジャン語を母語とする彼がペルシャ語で行われる授業についてゆくのは大変であったといいます。
そんなハンディを負いながらもアボロファテフは優秀な成績を修めていました。
しかしテヘランでの生活は予想を下回るものであり、父親が描いた絵は売れない日も多く、やがて家族はタブリーズへ戻ることになります。

タブリーズに戻った彼はラシュディ工学校に入り、6年生まで同校で学びました。
夏休みになるとアボロファテフは午前中を絨毯織りの職人として、午後からは父親が営む絵画店で聴覚障害を持つ父親の手足となって働きましたが、そんな彼の絵画の実力は教師たちも認めるほどで、卒業後はラッサム・アルジャンギが院長をつとめるタブリーズ音楽院に入学。
細密画を学び始めました。
ところが母親が死亡して父親が再婚すると、アボロファテフは父親の求めにより弱冠16歳で結婚することを余儀なくされます。
結婚により彼の夢は遠ざかったかのようでしたが、アボロファテフは生活費を切り詰めて再びテヘランに行き、タイル店の意匠師として、また映画館の看板師として働きながら古代工芸学校に学び、やがて自らの絵画教室を開きました。

そんなおり第二次世界大戦が勃発。
アボロファテフはタブリーズに戻ってアトリエを開設するとともに絨毯製作を始めますが、生活に余裕はなく、彼が最初に製作した絨毯は借金のかたとして持ち去られたといいます。
その頃アボロファテフが手がけた絨毯は有名人の肖像を織り出したユニークなものでした。
1941年にソ連軍がアゼルバイジャン地方へ侵攻すると市民の生活は混乱します。
政治は腐敗し経済は困窮。
そんな状況を彼は治世への痛烈な批判を込めて風刺画にしました。
アボロファテフが描いた風刺画はとてもわかりやすく、たちまち人気になります。

その風刺画を絨毯に織り出した彼はテヘランへ行き、赤新月社(レッド・クレセント)が主催するオークションで販売。
テヘランにおける経済活動の中心地の一つであるラーレザール地区に工房を構えて絨毯製作を始めました。
アボロファテフの作品はイランにおける絨毯意匠の伝統を大きく逸脱したものであり、それに眉を細める絨毯作家や愛好家は少なくなかったといいます。
賛否両論の中で彼は次々に革新的作品を世に送り出し、各地で展示会を開催しました。
アボロファテフは1996年に没し、故郷のタブリーズに埋葬されました。

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セイエド・ジャーファル・ラシュティアン(イスファハン)

セイエド・ジャーファル・ラシュティアン(イスファハン)

セイエド・ジャーファル・ラシュティアンは1925年、イスファハンに生まれました。
ラシュティアン家はサファヴィー朝期から続く画家の家系であるといわれ、彼の親戚には細密画家のセイエド・アッバス、セイエド・バーゲル、セイエド・アサドッラー、ミールザ・アリー・ラシュティアンらがいました。
とりわけセイエド・ハシェム・ラシュティアンはナセル・ウッディン・シャーの時代からパフラヴィー朝の時代まで、絨毯やタイルの意匠師として活躍したことで知られています。

ジャーファルは幼少期より、そんな叔父たちに絵を学びながら育ちました。
彼はナタンズのアガー・アリー・アッバス霊廟のドームと中庭の設計・施工を行い、またイスファハンにあるキャラバン・サライを改装した高級ホテルであるアッバシー・ホテルのインテリア・デザインを担当したことで有名です。

絨毯意匠師としてのジャーファルの作品は歴史的建造物や細密画をモチーフとしたものですが、1987年にマフムード・ファルシュチアンとともにデザインし、フェイズッラー・サフザルザデ・ハギーギの工房で製織した「サロル」と名付けられた巨大な絨毯はよく知られています。

彼は1988年、咽頭癌のため亡くなりました。

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セイエド・ホセイン・ミールモスール・アルジャンギ(タブリーズ)

セイエド・ホセイン・ミールモスール・アルジャンギ(タブリーズ)

セイエド・ホセイン・ミールモスール・アルジャンギは1881年、タブリーズに生まれます。
父親のイブラヒム・ミールは画家であり、イブラヒムから初等教育と絵画のレッスンとを受けたホセインはロシアに留学するつもりでした。
ところが父親が描いた風刺画に、当時の皇太子であるムザッファ・ウッディン・ミールザが激怒。
死刑を宣告したことから留学は延期となります。

ログマン・アルムマリクの仲裁により、イブラヒムは赦免されるとともに宮廷で絵を描くことになりました。
彼は16歳のホセインにそのうちのいくつかを任せますが、その出来栄えはのちにイランを離れた外国人画家によって描かれたと噂されるほどであったといいます。

ホセインは作品を仕上げた後、皇太子の招きを断ってロシアのトビリシに向かいました。
トビリシではその自然に触発されて自身の作品を描くとともに、アイヴァゾフスキー、スリコフ、シャギンらの作品を研究。
またローマを訪れて美術館でドイツ人画家の作品に触れ、感性を磨きました。

帰国後、彼はテヘランのアラー・ウッダウレ通りにアトリエを構え、カマル・アルモルクと親交を重ね、5年後の1917年にタブリーズに戻るりムスタザルフェ芸術会を設立。
一日7時間、無償で絵画を教え、2年後、アゼルバイジャン・ムスタザルフェ芸術会の会長に選出されます。
1923年にはメヒディ・ゴリー・ヘダヤット(マフバル・スルタネ)科学大臣によりイラン国立美術館の館長に任命されました。

1963年没。

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セイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニ(カシャーン)

セイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニ(カシャーン)

セイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニは1921年、カシャーンで生まれました。
父親のミールザは絨毯の意匠師、母親のファラ・ラカは織物師であり、彼は幼少期から両親のもとでから絨毯や織物について学びます。
13歳からは父親の勧めで、名の知れた意匠師であった叔父のセイエド・レザー・サナイとミールザ・ナセロッラ・ナグシュザデに師事。
18歳から3年間は父親の援助を受けながらイスファハンのミールザ・アガー・イマーミとホセイン・モッサバル・アルモルキのもとで細密画を学びました。

モハンマドはイランの風景や人物などを描いた絵画をそのまま絨毯のデザインとして取り入れることを考えます。
これは当時としてはきわめて斬新な発想であり、サファヴィー朝期以来の絨毯のデザインとは相反するものでした。

しかし、それを実現するためには大きな困難が待ち受けていました。
混ぜることにより無限の色を簡単に作り出すことができる絵具とは異なり、絨毯上に自然なグラデーションを描くには多色の糸を染める必要があります。
そのため彼は天然染料によって染めあげた何千色にも及ぶ糸を用意しました。
真偽のほどは定かではありませんが、モハンマドが製作したある作品には840色もの糸が使用されたと伝えられます。

晩年は手織絨毯の専門学校の建設に携わっていましたが、完成を見ることなく1997年に76歳で没しました。
彼の弟子にはハサン・マレフティやモハンマド・サイードらがおり、現在もカシャーンの絨毯作家として活躍しています。

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セイエド・レザー・サナイ・カシャーニ(カシャーン)

セイエド・レザー・サナイ・カシャーニ(カシャーン)

セイエド・レザー・サナイ・カシャーニは1886年、カシャーンに生まれました。
幼少期から絨毯に興味を持っており、画家であり絨毯意匠師でもあったミールザ・アフマドとその弟であるミールザ・アリー・アクバルに師事。
その後、独立し意匠師としてのキャリアをスタートしました。

彼は平織とパイル織りとを組み合わせたレイズド・シルクの技法を用いた作品、歴史上の人物や風景を織り出したピクチャー絨毯の製作で有名ですが、カシャーンで意匠図に初めて罫紙を用いたことでも知られています。
また、ひとたび鉛筆を握ると最後まで消しゴムを使用しなかったと伝えられます。
レザーは詩や書道にも秀でていた上、アラビア語、ロシア語、フランス語などの外国語にも堪能で、フランス語の教師でもありました。

彼には多くの子供がいましたが、息子のアフサンは詩人でキャラジ弁論協会の創設者、モフセンとレザーハーンは画家兼絨毯意匠師、モハンマドは音楽家でカシャーン・ラディーフ音楽学校の校長。
画家兼絨毯意匠師のミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデに嫁いだ娘のアクラムサダトは絨毯の織師でした。
1986年、レザーは100歳で天寿を全うし、ダシュト・アフルーズ霊廟に埋葬されました。

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ハサンハーン・シャーロキ(ケルマン)

ハサンハーン・シャーロキ(ケルマン)

「ハサンハーン・モスール」として知られるハサンハーン・シャーロキは1868年、ケルマンに生まれました。
父親のモフセンハーン・シャーロキは細密画家で、ケルマンで最初の絨毯意匠師として知られています。

そんな父親のもとで細密画や絨毯意匠について学んだハサンハーンは、生涯にわたり1000枚以上の意匠図を描いたされ、今日のケルマン絨毯のほとんどが彼のデザインをもとにしたものといいます。
それはサファヴィー朝期のデザインとは明らかに異なる斬新なものでした。
ハサンハーンは人物や動物を盛り込んだ作品を得意としており、現在イラン国立絨毯博物館に収蔵されているイランと世界の指導者たちを織り出した作品はその代表作で、窓絵風の大きな楕円形のメダリオンを配したデザインは、彼の名をとり「ハサンハニ」とよばれています。

ハサンハーンは細密画や装飾工芸にも秀でており、天文学の識者でもありました。
彼は1946年に78歳で没し、ケルマンの東にあるセイエド・ホセイン霊廟に埋葬されますが、その人生と作品についてはマジド・ファダイによるドキュメンタリー映画が制作されています。

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ホセイン・ターヘルザデ・ベフザード(タブリーズ)

ホセイン・ターヘルザデ・ベフザード(タブリーズ)

ホセイン・ターヘルザデ・ベフザードは1887年、タブリーズの宗教家の家に生まれました。
幼い頃から絵にとても興味を持っていましたが、混乱期にあった当時の社会情勢と両親の意見とによりそれを学ぶことが困難でした。
そんな中、彼は両親に内緒で有名な画家であるミール・ガッファリーのもとに3年間通ったといいます。

のちにテヘランに行き、モッラー・ナセロディン紙の漫画を描きながらタフリース芸術学校で3年間学びますが、家族の意見を受け入れてタブリーズに帰郷。
数人の仲間たちともに漫画新聞を出版するとともに、ハシュラト・アルアルズ紙の漫画や『タレビの船』『図解・倫理』『図解・イランの歴史』というのちに有名になる本の挿絵を描きました。

その後ホセインは科学と芸術を学ぶためにイスタンブールに行き、ザリーフェ芸術学校(現在のファーリー芸術大学)でオスマン帝国とイタリアの芸術を学び、ハターリーン学校の細密画と装飾工芸の教師となるとともに、イスタンブールの博物館に収蔵されている古い細密画の修復を任せられました。
トルコでは絨毯学校の講師も務め、オーストロ・ハンガリー皇帝から帝室の紋章入りの金のピンを贈呈されます。

1929年、彼はアフマド・シャーの皇太子であるモハンマド・ホセイン・ミールザ・カジャールの要請を受けて帰国。
テヘランの絨毯研究所の所長に任命され、次いで芸術学校の校長を拝命しました。
また国立美術館の設立に関わるとともにシャーの宮殿の絵画や装飾品を制作しました。

やがて心臓病を患ったホセインは1945年にすべての職を辞します。
しかし2年後の1947年には、トルコのイズミールで開催された国際展示会に出展を果たし、トルコ文化省の招きによりイスタンブール芸術大学の教授となりました。
1962年、彼はイスタンブールで永眠。
遺体はテヘランに移され、カセム霊廟に埋葬されました。

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ホセインハーン・ファルザンド・アフマドハーン・シャーロキ(ケルマン)

ホセインハーン・ファルザンド・アフマドハーン・シャーロキ(ケルマン)

ホセインハーン・ファルザンド・アフマドハーン・シャーロキは1917年、ケルマンに生まれました。
ホセインハーンは著名な絨毯意匠師であるアフマドハーン・シャーロキの次男であり、子供の頃から絵を描くことが大好きでした。
小学校の授業が終わると彼は鞄を持ったまま父親の工房に行き、父親の手伝いをしていたといいます。

やがてケルマンにイースタンラグやOCM(オリエンタル・カーペット・マニュファクチュアズ)などの外国企業が絨毯工房を開設すると、父親は意匠の権利を譲渡。
以後、ホセインハーンは父親、兄弟とともにそれら外国企業のために。
1935年に外国企業が国有化されてイラン絨毯公社が設立されると公社のために意匠師として働きました。

アフマドハーンの死後、彼は兄のハシェムハーンとともに父親の仕事を引き継ぎますが、のちに公社からの給与倍増の申し出を断って退職。
農業に勤しみました。

ホセインハーンは1997年に亡くなりますが、その数年前、彼は家に残る父親と自身が作成した意匠図をすべて焼却します。
彼らの作品の不完全なコピーが出回るようになり、絨毯商たちはそれをアフマドハーンの作品として販売するようになったのが理由でした。
イラン絨毯公社に残る意匠図も保存状態が悪く、使い物にならないといいます。
もはや彼が描いた作品が製作されることはありません。

マフムード・ファルシュチアン(イスファハン)

マフムード・ファルシュチアン(イスファハン)

マフムード・ファルシュチアンは1930年、イスファハンに生まれました。
父親は絨毯商で、そんな生活環境からマフムードは幼少期から芸術に興味を示したといいます。
イスファハン芸術学校に進んだ彼はミールザ・アガー・イマーミやイーサー・バハードリーのもとで数年間学びました。
同校を卒業するとマフムードはヨーロッパへ行き、西洋の巨匠の作品に触れ自らのスタイルを確立したといわれます。

帰国後、国立美術研究所(現在の芸術文化省)に入所し、その後国立芸術アカデミーとテヘラン大学芸術学部の教授に任じられました。
その後、国内外で開催された数多くの個展と展覧会に出展し、さまざまな芸術機関や文化センターから10以上の賞を受賞しており、文化芸術高等評議会からイラン絵画とイスラム美術の博士号を贈られています。

2001年には文化遺産財団によりテヘラン北部のサーダバード文化複合施設内にマフムード・ファルシュチアン美術館が開館しました。
マフムードは現在ニュージャージーに住んでおり、息子のアリーモラド・ファルシュチアンは医者として活躍しています。

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ミールザ・モハンマド・ナシール・アルホセイニ(シラーズ)

ミールザ・モハンマド・ナシール・アルホセイニ(シラーズ)

「フォルサト・ウッダウレ・シラージー」として知られるミールザ・モハンマド・ナシール・アルホセイニは1854年、シラーズに生まれました。
6歳から11歳まで初等教育を受けたミールザ・モハンマドは国語、アラビア語、理科が得意であったといいます。

彼はペルシャ語とアラビア語の文学に堪能であり、古代ペルシャ語と歴史に関心を持った現代イラン学者の一人でした。
シラーズで二人のヨーロッパ人から楔形文字の基礎を学び、ドイツ語の言語学者オスカーマンと言語学の研究を続けます。
ミールザ・モハンマドはまた画家、書家、詩人としても知られており、イラン国立絨毯博物館に残る彼がデザインした絨毯は詩的な世界をリアルに具現化したもので、フィールド下端のカルトゥーシュには達筆な文字で彼の名が書き込まれています。

ミールザ・モハンマドは1910年のカシュガイとハムセとの抗争。
1916年にはシラーズのドイツ領事館が先導者として疑われた際には仲介者を務め、和平工作に奔走しました。
1913年にザ・ファース新聞社を設立しますが、1920年に胃と腎臓疾患のため亡くなり、ハーフェズ廟の近くに埋葬されました。

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ミールザ・モハンマド・メヒディ・イマーミ(イスファハン)

ミールザ・モハンマド・メヒディ・イマーミ(イスファハン)

「ミールザ・アガー・イマーミ」として知られるミールザ・モハンマド・メヒディ・イマーミは1881年にイスファハンに生まれます。
イマーミ家はサダト・イマーミ・イスファハニに連なる宗教家の家系であり、父親のセイエド・モハンマド・ホセイン(ヤーダ・アブドッラー・アルホセイン)は宗教家であるともに画家で、花と鶏を描いた作品で知られていました。

ミールザ・モハンマドは神学校で学んだ後、15歳から父親や叔父のセイエド・ナスロッラー・イマーミから絵画の基礎を学び始め、24歳からは幾人かの芸術家から細密画や詩について本格的に学習します。
その後テヘランに行き、アルマシエで開催されたモバラケ市の芸術会議に参加。
半年間、著名な画家・工芸家であったミールザ・ラジー・サナイ・ホマーユンに師事し装飾工芸を学びました。

イスファハンに戻ったミールザ・モハンマドは、叔父の工房で創作活動を行った後、サングタラシャーン・マリク・サライに工房を構え、以後そこを拠点に芸術活動を行います。
彼の作品は人物画、花鳥画、装飾工芸、絨毯意匠図と多岐にわたっていますが、イスファハンに残る建造物や絵画からインスピレーションを得たものが多く見られます。

晩年は自宅で制作活動を行い、1955年、イスファハンで75歳で亡くなりました。

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ミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデ(カシャーン)

ミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデ(カシャーン)

ミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデは1896年頃、カシャーンに生まれました。
父親のミールザ・アフマドはカシャーンの有名な絨毯意匠師の一人であり、ミールザ・ナセロッラーは少年期より父親から絨毯の意匠について学びます。

やがて成人した彼は絨毯の織師であるアクラムサダトと結婚。
アクラムサダトは絨毯意匠師兼絨毯作家であったセイエド・レザー・サナイの娘でした。

ミールザ・ナセロッラーは義理の父親が得意とする絵画風絨毯にはいっさい手を出しませんでした。
パルメットに彩られたメダリオン・コーナーやオールオーバーなど、サファヴィー朝期の絨毯に基づく意匠を専門にしていたことで知られています。

ミールザ・ナセロッラーは1980年に亡くなりますが、彼には技術を伝えるべき子供がいませんでした。
しかし、彼が描いた意匠図のいくつかは今日のカシャーン絨毯の基礎となり、カシャーンの意匠師たちに受け継がれています。

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モハンマド・ホセイン・ナグシェチー(テヘラン)

モハンマド・ホセイン・ナグシェチー(テヘラン)

モハンマド・ホセイン・ナグシェチーは1903年、フェラハンに生まれます。
父親は絨毯意匠師であったアリー・ナグシュチーで、少年期のモハンマド・ホセインは学校が終わると父親の工房で絨毯の意匠や配色について学びました。
16歳になるとアラクでフランス語を学習。
翌年にはクムに行き、絨毯商のホセイン・ガッファリーのもとで意匠師となります。

1930年彼はテヘランへ向かい、ホセイン・ターヘルザデ・ベフザードが設立したアンシエント芸術学校に入学。
ミールザ・アリー・ドラウディから絨毯デザインに加え、装飾工芸、タイルデザイン等を学びました。
1934年に同校を卒業後、モハンマドは芸術省傘下の国立芸術局に絨毯意匠師として採用されます。

1947年には同局の正式な意匠師ととなり、1962年まで勤務しました。
退職後は書道家として活動し、晩年には再びフランス語を学びますが、1988年に永眠しました。
彼が描いた意匠図はイラン国立絨毯博物館に収蔵されています。

モハンマド・ホセイン・ベナム(タブリーズ)

モハンマド・ホセイン・ベナム(タブリーズ)

モハンマド・ホセイン・ベナムは1953年、タブリーズに生まれました。
思春期を迎えると絵や演技に夢中になり、そんなモハンマドを父親は強く諫めますが、母親の共感のお陰で絵を描き続けます。
彼は経営管理を学んだ後に油彩の勉強をし、イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピンやレオナルド・ダビンチら巨匠の作品の模写に励むとともに、細密画や装飾工芸についても学びました。

絨毯の意匠を描くことに一層の関心を持っていた彼は、1970年に最初の意匠図を完成させます。
モハンマド・ホセインは絨毯の意匠にヨーロッパ絵画に通じる文様を採り入れました。
写実的に描いた赤色や紫色の花々を散りばめたその意匠はのちに「ベナム・デザイン」とよばれるようになります。

またクリーム色や銅色、黒色、シアン・ブルーといったそれまで使われることのなかった色をメイン・カラーに採用したり、歴史をテーマにしたピクチャー絨毯を製作する、あるいは顧客の需要に合わせて絨毯のサイズを変更するなど、斬新なことを次々と行いました。
現在まで1000以上の意匠図が彼によって作成されたと言われますが、彼の絨毯にたいする愛情の為せるものであるといえるでしょう。

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モハンマド・ホセイン・モッサバル・アルモルキ(イスファハン)

モハンマド・ホセイン・モッサバル・アルモルキ(イスファハン)

「ハジ・モスール」として知られるモハンマド・ホセイン・モッサバル・アルモルキは1890年、イスファハンに生まれます。
生家はサファヴィー朝期から続く芸術家の家系で、祖父のジーナ・アルアベディンとモハンマド・キャリーム、父親のモハンマド・ハサンはいずれも画家でした。

モハンマド・ホセインは1920年代にイスファハンにあるチャハル・スルトゥーン宮殿の壁画の修復に携わります。
その後ロシア、ポーランド、ベルギーを経由してフランスに行き、半年間パリに滞在。
パリではヨーロッパ絵画の巨匠たちの作品に触れるとともに、イラン美術の研究者であるアーサー・ウブハム・ポープ夫妻と会い、本の挿絵の作成に協力しました。

彼は細密画に遠近法を採り入れ、近代的アレンジによるイラン絵画の復活を目指します。
その思いは自らが描く絨毯の意匠図にも込められており、代表作である「ゴル・ボルボル」に顕著です。
モハンマド・ホセインは作業中に火傷を負い、その後遺症に悩んでいましたが、その後脳卒中を患い右手が完全に麻痺してしまいました。
1967年没。

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モフセンハーン・シャーロキ(ケルマン)

モフセンハーン・シャーロキ(ケルマン)

「モフセンハーン・ナガーシュ」ともよばれるモフセンハーン・シャーロキは1828年に生まれました。
彼はケルマンにおける絨毯意匠師の祖であり、ケルマンでもっとも有名な絨毯意匠師となるハサンハーン・シャーロキの父親でもありました。

モフセンハーンは細密画家で、19世紀末にケルマンにおいて絨毯製作が始まるにあたり、同地の手工芸品であったショールの意匠を採用。
罫紙を用いて意匠図を作成する方法を考案したといわれます。

彼の作品として有名なのはペイズリーのオールオーバーです。
緻密な花文様で構成されたペイズリーが整然と並ぶデザインはかつてケルマン・ショールの代名詞として知られたもので、その後ケルマン絨毯を代表する文様の一つとして20世紀後半まで用いられました。

モフセンハーンは1910年にケルマンで亡くなりますが、死の直前まで絵筆を握っていたと伝えられます。

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ラヒームプール・カゼム(タブリーズ)

ラヒームプール・カゼム(タブリーズ)

ラヒームプール・カゼムは1923年、タブリーズに生まれました。
父親のモハンマドプール・カゼムは絨毯商であるとともに絨毯作家であり、ラヒームプールは少年期から色とりどりの花々や流麗なイスリムを描いた絨毯のデザインに魅了されていたといいます。

初等教育を終えると彼は名を知られた絨毯作家であるイブラヒム・レザイやアフマド・エマドに師事。
見習い期間を終えるとエマドの工房で意匠師として働きました。

やがてラヒームプールは自ら絨毯製作に乗り出します。
1945年に最初の絨毯織りの工房をタブリーズ市内のラステ通りに構え、すべての工程を監督。
数年後には工房をガレ・アーガージュ地区に移転しました。

自身の工房における製作にとどまらず、彼はマララン地区にあるマスタニ工房を始め、市内各所の絨毯工房に製作を依頼し始めます。
そうして完成した12枚の絨毯のほとんどは40ラジ以上の緻密さを持ち、ラヒームプールの名を知らしめるきっかけになりました。

その後、トラビという絨毯商と取引を始め、更にカラフィ、モハンマディ、ナロニらとともに商社イラン・カーペット・インダストリーズを設立した彼は、国内外における数々の展示会に出展。
その革新的な作品は世の人々の注目を集めることとなりました。
ラヒームプールの作品のいくつかには、ミールザ・モフセン・アディーブ・アルウラマーによる詩が織り込まれています。

没年不詳。

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