ペルシャ絨毯の有名工房(作家)|ペルシャ絨毯専門店フルーリア東京

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目次

イスファハンの有名工房

アクバル・メヒディー工房

アクバル・メヒディー工房

アクバル・メヒディーは1954年、イスファハンに生まれました。
11歳からペルシャ絨毯のデザインを学び始め、1968年に中等教育を終えるとイスファハン芸術学校に進み、ジャバッド・ロスタム・シラージーらから細密画や装飾工芸を学びます。
しかし芸術学校の学費は高く、中流階級の家に生まれた彼は2年で同校を中退することを余儀なくされました。

そんな息子を父親は絨毯意匠師であるラフマド・シャードマンに預けます。
5年間の修行を終えたアクバルは1976年に独立。
イスファハンの絨毯バザールからほど近い場所にデザイン工房を開設しました。
以後、細密画や装飾工芸のデザインを採り入れた斬新なデザインを考案し続け、のちに自ら絨毯製作に乗り出します。

彼のペルシャ絨毯に向ける情熱はデザインのみにとどまらず、製作工程のすべてに及びました。
天然染料のみによって染めあげられた最高級の素材を緻密無比なる織りをもって仕上げたその作品により、アクバルは2001年に彼は第1回クリスタル・ショルダー・フェスティバルでデザイナー賞を受賞。
イラン・カーペット・フェスティバルでは3年連続で1位を獲得するという快挙を成し遂げました。

イラン国立カーペット・センターへ技術協力するとともにイスファハン州芸術家協会の理事としても活動する彼が、これまで参加したイラン国内外における展示会は70回前後に及びます。
2007年には「イスファハン・メヒディー」がイラン特許庁に商標登録されました。

【アクバル・メヒディーの作品】を見る。

アブドラヒーム・シュレシ工房

アブドラヒーム・シュレシ工房

アブドラヒーム・シュレシは1869年、イスファハンに生まれました。
彼はモザッファル・ウッディン・シャーの時代にイスファハン太守を務めたジリ・スルタン・マスード・ミールザ王の援助を受け、小さなペルシャ絨毯を製作する工房をイスファハンに構えます。

やがてロシアと取引する貿易商の注文により一組のシルク絨毯を織りあげますが、それらの絨毯はロシア皇帝であったニコライ2世に献上されました。
アブドラヒームの作品を目にしたニコライ2世は、自身の肖像画絨毯を織らせるために彼を招聘し、アブドラヒームは1897年、ロシアへと旅立ちます。

数か月を経て帰国した彼は、イスファハンで絨毯製作を再開。
意匠師のミールザ・アボロカゼムやその息子であるミールザ・アリー・モハンマドとともに、以前よりも大きなサイズのペルシャ絨毯を製作するようになりました。

晩年にはミールザ・アガー・イマーミのデザインによる作品を多く製作していましたが、1930年にイスファハンで永眠しました。
アブドラヒーム亡き後は息子のアッバス・シュレシが工房を引き継ぎますが、アッバスは染色家でもあり、セーラフィアンに色糸を提供していました。

【アブドラヒーム・シュレシの作品】を見る。

アフマド・アジャミ工房

アフマド・アジャミ工房

「ハジ・アフマド・カーシ」として知られるアフマド・アジャミは、1884年にカシャーンで生まれたとされます。
サヒーブという名の女性と結婚した後、カシャーンからイスファハンへ移り住み、1906年に絨毯工房を開設。
製織と染色に携わる500人以上の雇用を創出しました。

彼の作品はユニークなデザインとカラーリングとで知られますが、工房では意匠師たちを専属として抱えており、その中には若き頃のアフマド・アルチャングやレザー・シャーケリ・カルバシオン、モハンマド・ホセイン・バリオラヒらがいました。
デザインはすべてアフマドの名の下で世に出されましたが、中でも「ハジ・アフマド」とよばれる文様は有名です。
織師のほとんどは女性で、妻のサヒーブが彼女らの管理にあたりました。1921年からアフマドの作品は欧米に輸出されるようになり、間もなくして彼は世界的に有名になりました。

彼の作品は英国のビクトリア・アルバート博物館とイラン国立絨毯博物館に収蔵されています。
彼には多くの子供たちがいましたが、モハンマド・アリー・アジャミだけが父親の道を歩みました。
工房は1961年まで稼働していました。
彼は1974年に90歳で亡くなり、イスファハンのタフテ・フーラード墓地に埋葬されました。

【アフマド・アジャミの作品】を見る。

ゴラムアリー・サフダルザデ・ハギーギ工房

ゴラムアリー・サフダルザデ・ハギーギ工房

ゴラムアリー・サフダルザデ・ハギーギは1916年、ペルシャ絨毯作家であるメヒディ・ハギーギの長男としてイスファハンに生まれました。
ホナルパルバル地区の学校で高等教育を終えた後、19歳で父親からペルシャ絨毯作家としての教育を受けはじめ、やがて父親の工房の管理を任されるようになります。
この工房はイスファハンで唯一、工場制手工業により運営されているものでした。

父親の跡を継ぎペルシャ絨毯織りの巨匠とよばれるようになったゴラムアリーは、自らの作品の製作と並行して後進の指導にあたり、イーサー・バハードリーが校長を務めるイスファハン芸術学校で教鞭をとりました。
テヘランの国会議事堂に納められた12メートル四方のペルシャ絨毯は彼の代表作として知られています。

サデク・セーラフィアン工房

サデク・セーラフィアン工房

サデク・セーラフィアンは1922年、レザー・セーラフィアンの三男としてイスファハンに生まれました。
高等教育を終えた後レザーの協力を得て、17歳で初めてペルシャ絨毯製作に取り組んだといいます。
以後、ペルシャ絨毯作家としての道を歩み続け、数々の名作を世に送り出してきました。

サデクは画才にも優れ、代表作である「べへシュテ・セーラフィアン」(セーラフィアンの楽園)は彼がホセイン・モッサバル・アルモルキとともにデザインしたもの。
他にも「ロゾ・シャクーフェ」(バラとブロッサム)、「ゴロ・パルバーネ」(花と蝶)など、自らが考案したとされる写実的でユニークな意匠の作品を残しています。

サデクは2005年に没しますが、その意匠は息子のキャリーム、アミール・ナセル、マフムーディ、モハンマド・メヒディによって受け継がれています。
彼は銘についてもセーラフィアン工房の銘に自身のフルネームを英文字で加えた独自のものを使用していましたが、息子たちもそれに倣ったものを使用しています。

【サデク・セーラフィアンの作品】を見る。

ハサン・ファーミール・ダルダシュティ工房

ハサン・ファーミール・ダルダシュティ工房

ハサン・ファーミール・ダルダシュティは1936年、イスファハンに生まれました。
父親のモハンマドは絨毯商で、そんな父親を見て育ったハサンは、幼少期からペルシャ絨毯に大きな興味を抱いていたといわれます。
中等教育を終えた彼は15歳から父親のもとで働き始めますが、1970年に工房を開設しペルシャ絨毯作家としての道を歩み始めました。

ハサンは自らが手がけるペルシャ絨毯に、それまでのイスファハン絨毯には使われることのなかった色を採用します。
天然染料によって染めあげられた緑色や黄色、空色、ベージュ色などの糸を用いて製作された彼の作品はたちまち評判となり、イスファハンの絨毯界に革新をもたらしました。
ハサンはまた様々な色に染色した絹糸をパイルに使用し、イスファハンでは類を見ないオール・シルクのペルシャ絨毯を製作しました。

彼の作品の中には169万ノットを数えるものもあり、その品質はイランでもトップクラスに位置するものです。
そうした技術の高さは広く認められ、国内外においていくつもの賞を受賞しました。

ハサンには前妻との間にできた長男アリーレザーと、後妻との間にできた次男アミールホセインの二人の息子がいます。
アリーレザーは離婚した母親とともにカナダに渡ってペルシャ絨毯とは関係のない仕事に就いており、現在工房はアミールホセインが老齢の父親を支える形で運営しています。

【ハサン・ファーミール・ダルダシュティの作品】を見る。

ハサン・ヘクマドネジャード工房

ハサン・ヘクマドネジャード工房

ハサン・ヘクマドネジャードは1930年、イスファハンに生まれました。
父親は名を知られたペルシャ絨毯作家であったモハンマド・カゼムで、祖父はイスファハン太守であったジリ・スルタンに仕えた後、ペルシャ絨毯織りを始めたアフマド・ベイクでした。
ハサンは6歳でパイルを結ぶことを覚えたとされ、学校で初等教育を受けながら父親からペルシャ絨毯の製作法を学びます。

1942年、父親が商売敵の手によって殺害されると、彼の生活は一変します。
家族は貧困に陥り、ハサンは学業を中断するを余儀なくされました。
彼は懸命に働きながら学業を再開。
卒業証書を手にしました。
やがて兵役に就いたハサンは駐屯地内の薬局勤務となり、除隊後はイスファハンで薬局を経営します。

その後、薬局を閉めて父親の借金を返し終えた彼は、父親の意志を継ぎペルシャ絨毯製作に乗り出します。
ハサンは自らのペルシャ絨毯を製作するにあたり3つのポリシーを持っていました。
その第一は父親から受け継いだ天然染料を使用すること。
その第二はイランの伝統に沿ったデザインを採用すること。
その第三は作品は緻密な織りをもって製作することです。
そうして完成した彼の作品には狂人を表す「マジュヌーニ」の銘が添えられていました。

1966年、中年に達していたハサンは力の衰えとストレスからペルシャ絨毯作家としての活動を停止。
ヨーロッパ諸国、米国、日本を訪れ、ペルシャ絨毯の取引の円滑化について協議を行います。
1979年のイスラム革命後、絨毯作家としての活動を再開し、それまでにない色柄の作品を製作するようにました。

1988年、心臓発作に見舞われたハサンは再びペルシャ絨毯作家としての活動をやめ、イスファハン中心部に若い絨毯作家を養成するための工房を開設しました。

【ハサン・ヘクマドネジャードの作品】を見る。

フェイゾッラー・サフダルザデ・ハギーギ工房

フェイゾッラー・サフダルザデ・ハギーギ工房

フェイゾッラー・サフダルザデ・ハギーギは1942年、イスファハンに生まれます。
父親はイスファハンにおける絨毯産業の復興期に活躍したメヒディハーン・ハギーギで、フェイゾッラーはメヒディハーンの四男でした。

フェイゾッラーは父親の背を見て育ち、中等教育を終えるとイーサー・バハードリーが校長を務めるイスファハン芸術学校に進学。
ジャバッド・ロスタムシラージーから細密画を学びます。
それに並行して兄のゴラムアリーからペルシャ絨毯製作を学んだ彼は、芸術学校を卒業すると文化遺産協会に就職。
イタリアの代表団の指導のもとでイスファハンの歴史的建造物の壁画の修復に携わり、その後イラン政府が各国の元首や著名人に贈呈するイーサー・バハードリー作画による121枚の肖像画絨毯の製作に関わりました。

国会議事堂に敷くためにロスタム・シラージーがデザインした121平米のペルシャ絨毯の製作を終えた1976年、フェイゾッラーは協会を辞めて絨毯作家としての道を歩み始めました。
彼の作品にはイスファハンの歴史的建造物を題材にしたものや、海をテーマとした前衛的で個性豊かなものが多く、そのほとんどはバハードリーやロスタム・シラージーのデザインによるものです。
伝統を守りつつも進化を忘れないフェイゾッラーの取り組みは高く評価され、クリスタル・ショルダー・アワードを2度受賞しました。

2020年、彼は心臓発作のため78歳で永眠。
イスファハンのレズバーン公園墓地に埋葬されました。

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メヒディハーン・サフダルザデ・ハギーギ工房

メヒディハーン・サフダルザデ・ハギーギ工房

メヒディハーン・サフダルザデ・ハギーギは1891年、イスファハンに生まれました。
父親のサフダルハーンは宗教家でしたが、メヒディハーンは聖職者としての道を選ばず、初等教育を終えると12歳で絨毯織りを始めます。

アブドルサマド・アスラミ、アブドルムタッラブ・シュレシ、アブドラヒムハーン・シュレシらに師事し、やがて独立した彼は自宅にいくつかの織機を設置し、家族とともにペルシャ絨毯の製作を始めました。
メヒディハーンの作品は絨毯商のアブドラヒム・エマーミやハガエグの目にとまり、彼らとの取引によって事業は発展。
イスファハン市内の電話局通りに工房を開設するに至ります。
メヒディハーンは男性の職工を雇用するとともに雇用保険を導入し、働きやすい環境づくりに努めました。

彼は天然染料の使用に拘り、またデザインをより優れたものにするためモスール・マレキやゴラムレザー・ファルシュチアン、ミールザ・アガー・エマーミらに意匠図の作成を依頼します。
そうして第二次世界大戦が始まる頃には、イラン絨毯界の巨匠として広く名を知られようになりました。
また慈善家ともして知られたメヒディハーンは1926年頃、赤十字国際委員会とフランス領事館の求めにより、イスファハンに住むユダヤ人に絨毯織りを教えるための工房をナグシェ・ジャハン広場に開設しました。

謙虚な人物であった彼は、自身の作品に銘を入れることを好まなかったといいます。
メヒディハーン1978年に亡くなり、セイエド・モハンマド・ラティーフ・ハージェビー墓地に埋葬されました。

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モジュタバ・セーラフィアン工房

モジュタバ・セーラフィアン工房

モジュタバ・セーラフィアンは1946年、モハンマド・セーラフィアンの長男としてイスファハンに生まれました。
祖父であるレザー・セーラフィアンのには24人の孫がいましたが、モジュタバはレザーの初孫であり、幼少期から祖父や父の背を見て育ちました。

彼は高等教育を受けつつ、16歳で絨毯作家としての活動を始めたといわれます。
イラン国立大学を卒業後、英国ケンブリッジ大学に1年間語学留学。
家族の求めに応じて帰国してからは本格的に製作活動に入りました。

アフマド・アルチャングやアクバル・ミナイアンらが遺した未完成の下絵を完成させ、それらをもとに極めて質の高い作品を製作していましたが、最近ではもっぱら一族が製作したペルシャ絨毯の鑑定に勤しんでいるようです。

なお、モジュタバをはじめバーゲル、メヒディらモハンマドの息子たちの作品には、父親に倣い彼らのフルネームが織り込まれています。

【モジュタバ・セーラフィアンの作品】を見る。

モスタファ・サッラフ・マムリ工房

モスタファ・サッラフ・マムリ工房

モスタファ・サッラフ・マムリは1908年、イスファハンに生まれました。
サッラフの姓が示すとおり元は金融業者で、セーラフィアンらとともにパフラヴィー朝末期のイスファハンにおいて、もっとも有名で高い評価を受けていた絨毯作家の一人です。

1940年代に工房を開設したとされ、作品はオーソドックスなメダリオン・コーナー・デザインが中心ですが、特筆すべきはその色の美しさ。
とりわけ初期の作品によくある天然染料によって染め上げられた澄んだ青色や赤色は、イスファハン随一といっても過言ではありません。
晩年の作品にはカーキ色やベージュ色など、アースカラーを多用した落ち着きある色調のものが多く見られます。

1977年没。

モハンマド・セーラフィアン工房

モハンマド・セーラフィアン工房

セーラフィアン工房のグランドマスターを長く務めたモハンマド・セーラフィアンは1921年、レザー・セーラフィアンの次男としてイスファハンに生まれました。
父や兄モハンマド・アリーとともに工房開設当初から絨毯製作に携わりました。

絵画的デザインを得意としたホセイン・モッサバル・アルモルキに依頼した「ゴロ・ボルボル」(花と小夜鳴鳥)や「シェカールガー」(狩猟)などの名作を残しており、テヘランの絨毯博物館やニアバラン宮殿には彼の作品が収められています。
また、モハンマドが国際連合に寄贈したサーディーの詩を織り込んだ25平米の大作が、ニューヨークの国際連合本部ビルに掛けられています。

晩年の作品には最上部に彼のフルネームが織り込まれ、巷に溢れる偽物への対応策がとられるようになりました。
最近のモハンマドは慈善活動にも積極的で、1000人の学生を擁するモハンマド・セーラフィアン・カレッジを設立した他、「慈悲深き大学建設者会議」の議長として、イスファハン大学の新学部設立にも関わっていました。
2021年没。

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モハンマド・ダーバリー・ドラタバーディ工房

モハンマド・ダーバリー・ドラタバーディ工房

モハンマド・ダーバリー・ドラタバーディは1937年、イスファハンに生まれます。
生い立ちについては定かでありませんが、絨毯作家となってからはアフマド・アルチャング、アッバス・アルバンディ、タバル・イスファハニ、モスタファ・ヒジュラティらの意匠師やレザー・シャーケリン、メフルサーブらの画家が描いた意匠図に沿ってペルシャ絨毯を製作していました。

彼が製作したペルシャ絨毯のデザインはシャー・アッバスのパルメットを用いたメダリオン・コーナーやアフシャン(総文様)といったオーソドックスなものから、ゴンバディ(ドーム文様)やジリ・スルタニ(花瓶の連続文様)などユニークなものまで多岐にわたっています。
イスファハンのボルカル地区に作業場を置き、最盛期には1300人の織師を雇って年間650枚ものペルシャ絨毯を製作していました。

彼にはホセイン、ハサン、アッバス・アリーの3人の息子がおり、いずれも絨毯作家として活動しています。
なお、モハンマドの作品には「マフムード」「イスファハン・ダーバリー」「ダーバリー」のいずれかの銘が織り込まれています。

【モハンマド・ダーバリー・ドラタバーディの作品】を見る。

レザー・セーラフィアン工房

レザー・セーラフィアン工房

レザー・セーラフィアンは1881年、イスファハンに生まれました。
セーラフィアンは金融業者を意味する姓で、もともと金融業者で成功していたレザーがペルシャ絨毯作家としての道を歩み始めるのは、まったくの偶然からでした。
自宅にあった幾枚かのペルシャ絨毯を買替える際、満足できる品が見つからなかったことから、彼は自身でペルシャ絨毯を製作することを思い立ちます。
借金を残したまま亡くなった絨毯職人の家族から製作途中のペルシャ絨毯を引取り、それを仕上げたのが彼の最初の作品になりました。
1939年のことです。

続いてレザーは、一貫して自らプロデュースしたペルシャ絨毯を製作。
メヒディハーン・ハギーギやアブドラヒーム・シュレシらのデザインも手がけたアフマド・アルチャングに意匠図の作成を依頼し、天然染料のみによって染めあげられた最高級の素材と緻密な結びによって、類まれな作品を完成させます。

渦巻き状のイスリム(蔓草)が優雅で躍動感あふれるその作品は、ペルシャ絨毯作家としての彼の存在を確固たるものにしました。
初期の作品には銘が入れられていませんでしたが、やがて下方のキリムの部分に「バフテ(織)・イラン・イスファハン・セーラフィアン」と記した銘がイラン国旗とともに織り込まれるようになり、セーラフィアン・ブランドを確立することになります。

レザーには上からモハンマド・アリー、モハンマド、サデク、アフマド、アリー、ホセイン、モハンマド・ハサンの7人の息子たちがいました。
セーラフィアン・ブランドのもとでそれぞれが独自に絨毯製作を行いました。
レザーは1975年、イスファハンで没しました。

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カシャーンの有名工房

セイエド・アミール・ホセイン・アフサリ・カシャーニ工房

セイエド・アミール・ホセイン・アフサリ・カシャーニ工房

セイエド・アミール・ホセイン・アフサリ・カシャーニは1935年、カシャーンの工芸家の家に末っ子として生まれます。
兄はペルシャ絨毯の意匠師であるセイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニで、アミール・ホセインは幼少期から兄や織物師であった母親の作品を見て育ちました。
少年期から類まれなる才能を発揮し、10歳代の彼が描いた意匠図は叔父のミールザ・ナセロッラー・ナガシュザデの作品と区別がつかないほどであったといいます。

兄とは異なり、名のあるペルシャ絨毯作家や棟梁のもとで修業した経験を持たない彼でしたが、やがてその実力は時の経済大臣アリーナギー・アーリーハーニに認められ、1963年にはパジリク絨毯の復元計画をイラン政府から受託。
アミール・ホセインが製作したパジリク絨毯の復元品は国賓への贈呈品として用いられました。

1970年代にはアケメナス朝期やササン朝期の遺跡、歴史上の人物を織り出した作品を製作。
その配色はイランにおける絨毯製作の歴史上類のない新しいものです。
また、博物館に収蔵されている古いペルシャ絨毯の復元品に用いられる色糸は、新たな染色法によって古色を出したものでした。
後にアミール・ホセインは中東で最初に操業を始めた機械織絨毯工場である「ラバンド・カーペット・インダストリー」の相談役、カシャーン大学芸術学部の講師、イラン絨毯学会とイラン芸術アカデミーの会員となりましたが、2019年に83歳で世を去りました。

なお、彼の補佐役でもあった一人息子で建築家兼大学職員のセイエド・アミール・マスード・アフサリ・カシャーニは、2003年に自動車事故で亡くなっています。

【セイエド・アミール・ホセイン・アフサリ・カシャーニの作品】を見る。

セイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニ工房

セイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニ工房

セイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニは1921年、カシャーンで生まれました。
父親のミールザはペルシャ絨毯の意匠師、母親のファルクは織物師であり、彼は幼少期から両親のもとでからペルシャ絨毯や織物について学びます。
13歳からは父親の勧めで、名の知れたペルシャ絨毯意匠師であった叔父のセイエド・レザー・サナイとミールザ・ナセロッラ・ナグシュザデに師事。
18歳から3年間は父親の援助を受けながらイスファハンのミールザ・アガー・イマーミとホセイン・モッサバル・アルモルキのもとで細密画を学びました。

モハンマドはイランの風景や人物などを描いた絵画をそのままペルシャ絨毯のデザインとして取り入れることを考えます。
これは当時としてはきわめて斬新な発想であり、サファヴィー朝期以来のペルシャ絨毯のデザインとは相反するものでした。

しかし、それを実現するためには大きな困難が待ち受けていました。
混ぜることにより無限の色を簡単に作り出すことができる絵具とは異なり、絨毯上に自然なグラデーションを描くには多色の糸を染める必要があります。
そのため彼は天然染料によって染めあげた何千色にも及ぶ糸を用意しました。
真偽のほどは定かではありませんが、モハンマドが製作したある作品には840色もの糸が使用されたと伝えられます。

晩年は手織絨毯の専門学校の建設に携わっていましたが、完成を見ることなく1997年に76歳で没しました。
彼の弟子にはハサン・マレフティやモハンマド・サイードらがおり、現在もカシャーンのペルシャ絨毯作家として活躍しています。

【セイエド・モハンマド・アフサリ・カシャーニの作品】を見る。

セイエド・レザー・サナイ・カシャーニ工房

セイエド・レザー・サナイ・カシャーニ工房

セイエド・レザー・サナイ・カシャーニは1886年、カシャーンに生まれました。
幼少期からペルシャ絨毯に興味を持っており、画家でありペルシャ絨毯意匠師でもあったミールザ・アフマドとその弟であるミールザ・アリー・アクバルに師事。
その後、独立しペルシャ絨毯意匠師としてのキャリアをスタートしました。

彼は平織とパイル織りとを組み合わせたレイズド・シルクの技法を用いた作品、歴史上の人物や風景を織り出したピクチャー絨毯の製作で有名ですが、カシャーンで意匠図に初めて罫紙を用いたことでも知られています。
また、ひとたび鉛筆を握ると最後まで消しゴムを使用しなかったと伝えられます。
レザーは詩や書道にも秀でていた上、アラビア語、ロシア語、フランス語などの外国語にも堪能で、フランス語の教師でもありました。

彼には多くの子供がいましたが、息子のアフサンは詩人でキャラジ弁論協会の創設者、モフセンとレザーハーンは画家兼絨毯意匠師、モハンマドは音楽家でカシャーン・ラディーフ音楽学校の校長。
画家兼絨毯意匠師のミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデに嫁いだ娘のアクラムサダトはペルシャ絨毯の織師でした。
1986年、レザーは100歳で天寿を全うし、ダシュト・アフルーズ霊廟に埋葬されました。

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ミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデ工房

ミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデ工房

ミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデは1896年頃、カシャーンに生まれました。
父親のミールザ・アフマドはカシャーンの有名な絨毯意匠師の一人であり、ミールザ・ナセロッラーは少年期より父親からペルシャ絨毯の意匠について学びます。

やがて成人した彼はペルシャ絨毯の織師であるアクラムサダトと結婚。
アクラムサダトは絨毯意匠師兼絨毯作家であったセイエド・レザー・サナイの娘でした。

ミールザ・ナセロッラーは義理の父親が得意とする絵画風絨毯にはいっさい手を出しませんでした。
パルメットに彩られたメダリオン・コーナーやオールオーバーなど、サファヴィー朝期のペルシャ絨毯に基づく意匠を専門にしていたことで知られています。

ミールザ・ナセロッラーは1980年に亡くなりますが、彼には技術を伝えるべき子供がいませんでした。
しかし、彼が描いた意匠図のいくつかは今日のカシャーン絨毯の基礎となり、カシャーンの意匠師たちに受け継がれています。

【ミールザ・ナセロッラー・ナグシュザデの作品】を見る。

ムッラー・モハンマド・ハサン・モフタシャン工房

ムッラー・モハンマド・ハサン・モフタシャン工房

1886年に生まれたムッラー・モハンマド・ハサン・モフタシャンは、カジャール朝期を代表するカシャーンの絨毯作家として知られています。

彼の妻はアラクのアンジュダン出身で、絨毯織りの達人でした。
モハンマド・ハサンは倉庫に眠っている絹やウールを使って絨毯を製作することを思いつき、絨毯工房を開設したと伝えられます。
彼は最初に製作したシルク絨毯をナセル・ウッディン・シャーに、二番目に製作した絨毯を首相と王子に贈るとともに、富裕層への絨毯の販売を始めました。

作品は人気となり、彼はモハンマド・タギー・ポシュティ・バフと提携し、更にいくつかの絨毯工房を開設します。
カシャーンの女性たちは家事の合間にできる絨毯織りの仕事に飛びつき、たちまちのうちに普及しました。

カシャーンにおける絨毯産業の礎となったモハンマド・ハサンは、1956年に70歳で亡くなったと伝えられます。

【ムッラー・モハンマド・ハサン・モフタシャンの作品】を見る。

モハンマド・ファルシュチー工房

モハンマド・ファルシュチー工房

生没年不詳。
「モハンマド・ダビール・サナイ」として知られるモハンマド・ファルシュチーは、カシャーンで名を知られた布商人であったタギー・カシャーニの家に生まれました。

父親のタギーはムッラー・モハンマド・ハサン・モフタシャンに絨毯を注文しており、それは二人の名が織り込まれた作品が現存していることから明らかになっています。
タギーはのちにテヘランの画家レザー・ホセイニに意匠図の作成を依頼。
絨毯工房を開設し、その作品はペルシャ絨毯収集家であるシャーラム・ミールザザデのコレクションにも収まりました。
そんな父親のもとで育ったモハンマドは少年期よりペルシャ絨毯に興味を抱き、やがて絨毯の意匠師となります。

彼のデザインはその優雅さからたちまちのうちに人気となり、マハンマドはダビール・サナイ(工芸の先生)とよばれるようになりました。
また彼は斬新な文様を採り入れることにも積極的で、ハジ・ハヌミやミナ・ハニ、ジル・ハキといった文様をカシャーンで初めて採用します。

その後、自ら絨毯製作を手がけるようになった彼は、パフラヴィー朝期を通して最も知られたカシャーンの絨毯作家となりました。
その生涯については謎の多いモハンマドですが、イスラム革命のあった1979年前後に没し、工房は閉鎖されたと伝えられます。

【モハンマド・ファルシュチーの作品】を見る。

クムの有名工房

アッバス・アリー・ジャムシードプール工房

アッバス・アリー・ジャムシードプール工房

「アッバス・ジャムシディ」として知られるアッバス・アリー・ジャムシードプールは1958年、クムに生まれました。
彼はクムの名匠モハンマド・ジャムシードプールの甥にあたり、中学校を卒業後15歳で父親のホセインがモハンマドとともに営む工房で絨毯製作のノウハウを学び始めます。

父親の死後、1979年に独立して自らの工房を開設。
以来、徹底した品質への拘りをもって作品の向上に努め、やがてモハンマドと肩を並べるほどになりました。
モハンマド同様「ゴル・リズ」とよばれる小花文様で有名ですが、作品はよりオーソドックスです。

同じくモハンマドの甥であり、アッバスの従兄弟であるジャーファル・ジャムシードプールも絨毯作家として活動しています。

アボロカゼム・ラングラズ・ジェッディ工房

アボロカゼム・ラングラズ・ジェッディ工房

アボロカゼム・ラングラズ・ジェッディは1959年、クムに生まれました。
彼は絨毯作家のイスマイル・ラングラズ・ジェッディの次男で、染色家でもあった父親はその経験と芸術性とを買われ周辺の町々から多くの注文を受けていたといいます。
高校を卒業したアボロカゼムは、1976年に亡くなった父親の跡を継いだ長男アリーの絨毯工房で働き始め、やがて独立。
シルク絨毯の製作を始めました。

生前の父親から教わった天然染料による染色の技法を用い、1000色にも及ぶといわれる色糸を使用したその美しい作品は、アラブ諸国やドイツ、イタリア、フランス、日本などで好評を博し、彼は広く名を知られるようになりました。
その後、カシャーンとアラクにも工房を設立し、現在も精力的に活動しています。

アリー・タージル・ラシュティザデ工房

アリー・タージル・ラシュティザデ工房

アリー・タージル・ラシュティザデは1924年、カシャーンに生まれました。
彼はアロサラニ、ラジャビアンらとともに1940年代にカシャーンからクムに移り住んだ絨毯作家の一人で、クムにおける絨毯産業の礎を築いた人物として知られています。

あらゆる産地の絨毯から文様を抽出し、それらを組み合わせることにより新たなデザインを創り出すのがアリーの得意とする手法でした。
ときにそれは部族絨毯の幾何学文様と都会的な花葉文様との融合という、人々の度肝を抜く革新をもたらします。

彼にはモハンマド・レザーという一人息子がおり、13歳から33年間パリに住んでいましたが、アリーの求めにより帰国。
晩年のアリーを支えました。

アリーは2014年に90歳で永眠し、工房はモハンマド・レザーが引き継ぎました。
モハンマド・レザーは父親の意志を継ぎ同年ラシュティザデ財団を設立。
ラシュティザデ・ゴールデン・ノット会議、ラシュティザデ・カーペット・デザイン・コンペティションを開催しています。

【アリー・タージル・ラシュティザデの作品】を見る。

タギー・ババイ工房

タギー・ババイ工房

タギー・ババイは1934年、クムで生まれました。
父親はクムでペルシャ絨毯の工房を経営しており、小学校を卒業したタギーは父親を手伝いながら絨毯製作について学びます。
1955年頃に独立して、クムのアザール通りの店舗を購入。
絨毯作家としてのキャリアをスタートさせました。
その後、クムにおける絨毯取引の中心であるガエム・パサージュに店舗を移した彼は、以後ここを拠点に世界を相手にビジネスを展開してゆきます。

タギーは他のクムの絨毯作家同様、はじめはウール絨毯を製作していましたが、やがてシルク絨毯を製作するようになりました。
シャー・アッバシやゴル・ファランギなど、彼が製作したペルシャ絨毯のデザインは50種類を超えるとされます。
中でもバクチアリの絨毯から着想を得たパネル文様のデザインは有名で、その作品によりタギーの名は世界で知られるようになりました。

彼はクム州で最初に開催されたペルシャ絨毯フェスティバルで、長年にわたり業界に貢献した人物として紹介されました。
絨毯業界で成功するための鍵は高品質な絨毯を製作することであるとし、趣味は仕事と言っていたタギーですが、2015年にクムにおいて永眠しました。

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マフムード・ヌーリー工房

マフムード・ヌーリー工房

マフムード・ヌーリーは1963年、クムに生まれます。
父親の実家はイスファハン州で140年もの間、衣服やペルシャ絨毯の工房を営んでおり、父親はクムでシルク絨毯の絨毯作家として、母親は織師として働いていました。
そんな家庭で育った彼は、中等教育を終えた15歳から父親のもとで修業を始めます。

10歳代ですでにその非凡なる才能を認められていたマフムードは、20歳を過ぎた頃に独立。
自らが製作する絨毯に、それまで使われることのなかった茶色や青緑色をベースにした独特のカラーリングを採用しました。
そのユニークな作品はアラブ首長国連邦、日本、ドイツ、米国、シンガポール、ロシアなどでたちまち人気となり、彼の名を世に知らしめます。

マフムードはササン朝の都クテシフォンの王宮に敷かれていたという、伝説の「バハレスタン絨毯」の復元を目指していました。
そして長年の研究の末、金糸と銀糸を使用した絢爛豪華な作品を完成させました。
そのうちの一枚はイラン国立絨毯博物館に収蔵されています。

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モハンマド・ジャムシードプール工房

モハンマド・ジャムシードプール工房

「モハンマド ・ジャムシディ」として知られるモハンマド ・ジャムシードプールは1947年、クムで生まれました。
12歳から絨毯作家となるべく修行を始め、約10年後に独立。
1975年に結婚し、4人の娘と2人の息子を授かりました。

彼の作品はペルシャ絨毯の伝統的意匠を取り入れつつも、独創的なデザインが特徴で、一般にジャムシディ・デザインとよばれています。
とりわけフィールドいっぱいに配したカルトゥーシュに細やかな花文様を散りばめたデザインは「ゴルリズ・フレーム」として有名。

彼の作品に対するこだわりは色糸にも及び、天然染料によって染めあげたイラン国産の最高級の絹糸は、高い評価を得ています。

モルテザ・ミールメヒディ工房

モルテザ・ミールメヒディ工房

モルテザ・ミールメヒディは1945年、クムに生まれました。
幼少期より母親から絨毯織りを学んだ彼は、3歳ではじめてパイルを結んだといわれます。

兄のアガーゴルの力を借りながらアッバス・マリクが描いた意匠図を用いて絨毯製作を開始したモルテザは、カシャーンの絨毯作家や織師からアドバイスを受けますが、とりわけカシャーンからクムに移住したアリー・ラシュティザデは彼に大きな影響を与えました。

モルテザは各地で行われる展示会に足を運び、また様々な町や村に旅し、自らの感性を磨きました。
彼の工房はクム近郊の村々に置かれていたので、手つかずの自然の中から植物を採取して染料の研究を行いました。

モルテザのポリシーは時の移り変わりに応じてペルシャ絨毯を進化させることであり、そのための斬新な試みは彼の多くの作品に見ることができます。
彼はまた古代の神話や歴史上の人物などを描いたピクチャー絨毯を製作することでも有名です。

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レザー・エラミ工房

レザー・エラミ工房

レザー・エラミは1934年カシャーンに生まれました。
父親のマフムードはクムにおける絨毯産業の草創期に活躍したペルシャ絨毯作家で、家族とともにクムに移住したレザーは父親を手伝いながらスキルを身につけます。

父親の死後、工房を引き継いだ彼は、やがて古典的なオーソドックスなデザインからの脱却を意図するようになります。
そんなレザーの意図を世に知らしめたのが、イタリアのデザイナーズ・ブランドであるジャンニ・ヴェルサーチS.p.A(2018年よりジャンニ・ヴェルサーチェS.p.A)との契約でした。
それはイランの絨毯界に衝撃をもたらし、賛否両論をよぶことになります。
しかし、世界の一流ブランドとの提携は彼の技術が世界に認められた証でもありました。

現在、工房は一人息子のアミール・ホセインがレザーを手伝う形で運営されています。

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ケルマンの有名工房

アフマド・ヤズダンパナ工房

アフマド・ヤズダンパナ工房

アリー・ケルマニ工房

アリー・ケルマニ工房

「アリー・ホナリ」とよばれたアリー・ケルマニは1877年、ケルマンに生まれました。
父親はアリー・アクバル・ジャッラのいう人物で、アリー・ケルマニはアボロカゼム・ケルマニのもとでペルシャ絨毯について学んだといいます。

アリー・ケルマニはカジャール朝末期のケルマンにおける絨毯産業の最盛期に、意匠師のハサンハーン・シャーロキと組んで数々の名作を世に送り出しました。
彼が6歳のとき今日残る彼の作品のいくつかにはアリー・ケルマニの銘が織り込まれており、彼が製作した無銘の作品を識別する手がかりとなっています。

アリー・ケルマニ1939年に62歳で没し、ケルマンのサヒブ・アルザマン・モスクに埋葬されました。

モハンマド・アルジュマンド・ケルマニ工房

モハンマド・アルジュマンド・ケルマニ工房

「スルタン・ガリ」(絨毯王)とよばれるモハンマド・アルジュマンド・ケルマニは1893年、ケルマンに生まれます。
彼はモハンマド・ジャーファル・ケルマニの3番目の子供で、モハンマド・イブンジャーファルと名乗っていました。

幼い頃から絨毯に興味を持っていたモハンマドは、職業訓練校で絨毯のデザインを学び意匠師となります。
花や鳥のデザインに懸命に取り組んでいた彼ですが生活は苦しく、そんな状況を克服するため絨毯を製作することを考えました。
10歳代で自身の作品を完成させたモハンマドは徐々に織機を増やし、事業を拡大させてゆきます。
やがて30歳になった彼はアルジュマンドに改名し、作品に織り込む銘もイブンジャーファルからアルジュマンドに変更されました。

モハンマドの作品はその品質と色柄のユニークさからイラン国内だけでなく、海外からも高く評価されるようになります。
ヨーロッパ中から彼の元へ注文が入るようになり、米国では絨毯王とよばれるまでになりました。
ロンドンのバッキンガム宮殿やワシントンD.C.のホワイトハウスにも、モハンマドが製作した絨毯が敷かれていることは有名です。

のちに農業の分野にも進出した彼はまた慈善家としても知られており、ケルマンに自らの名を冠した病院を建設しました。
モハンマドは1968年にニューヨークの病院で永眠。
ドイツのラジオ・ベルリンは「世界の絨毯王が亡くなった」と報じました。
彼の亡骸はモハンマド・アルジュマンド病院の入口に埋葬されています。

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タブリーズの有名工房

アクバル・ネザミドゥスト工房

アクバル・ネザミドゥスト工房

アクバル・ネザミドゥストは1933年、タブリーズに生まれました。
彼はタブリーズにおけるタブロー絨毯の第一人者として知られ、モハンマド・レザー・シャーの肖像画を織り出した作品で有名でした。

1985年にアクバルが自動車事故により52歳という若さで亡くなってからは、妻のパリドクト・サフティが息子のシャフリアル、メヒディ、ハサンとともに工房を引き継ぎ、マフムード・ファルシュチアンの絵画を織り出した作品を中心に製作していました。
父親のタブロー絨毯にかける情熱を受け継いだ息子たちの作品は、ときに100ラジという驚異的な緻密さをもって製作され、使用された色糸は800色にも及ぶといわれます。

ネザミドゥスト・ブラザーズ・カンパニーの最高経営責任者であり、イラン芸術家協会の会員でもあったパリドクトは2017年に73歳で他界しました。

アッバス・アリー・アラバフ工房

アッバス・アリー・アラバフ工房

アッバス・アリー・アラバフは1918年、タブリーズに生まれました。
父親のハサンはタブリーズにペルシャ絨毯の工房を持っており、学校における初等教育に加え、ファゼルという人物が営む学習塾で外国人教師らから外国語などを学んだアッバスは、11歳から父親のもとで働き始めます。
彼は父親から意匠師としての技術を教わるとともに、有名画家の作品や世界の美術館の画集から着想を得ようとしました。
とりわけミールモスールの作品はアッバスに大きな影響を与え、イランの伝統を残しつつも斬新な作風を形成する源になったとされます。

1938年、20歳になったアッバスは父親から工房の運営を任され、絨毯製作と国内外における取引のすべてを統括するようになりました。
1949年に父親が他界すると、以後長男であったアッバスは名実ともに一家の長として母親と6人の弟たちの生活を支えてゆくことになります。

そんな彼は、ペルシャ絨毯はイラン伝統の染色と技術とをもって製作され世界の市場に供されるべきであるとの信念を抱いており、合成染料が普及した世の中にあっても、自身が製作する絨毯には天然染料で染色された糸のみを用いました。
また、自らの工房で作成した意匠図を他の工房に売り渡すことはありませんでした。
アッバスの作品には、イランの細密画やタイル装飾の文様を独自の感性でアレンジしたユニークなものが多く見られますが、この時代に迎合しない強い個性こそが彼の持ち味であり、見る者を惹きつけて離さない作品の血流であるといえるでしょう。

タブリーズの絨毯界にあって異彩を放ち続けてきたアッバスは2007年に89歳で永眠し、現在は息子のモフセンが工房を引き継いでいます。

【アッバス・アリー・アラバフの作品】を見る。

アハド・アジムザデ・イスファンジャニ工房

アハド・アジムザデ・イスファンジャニ工房

アハド・アジムザデ・イスファンジャニは1957年、タブリーズに生まれました。
7歳になると学校に通い始めますが、父親が亡くなったことで家族の生活は苦しくなり、アハドは退学を余儀なくされます。
彼は日中を絨毯の織師として働き、夜を勉強の時間に当てました。

14歳になる頃にはすでに周辺地域で製作された小さなペルシャ絨毯を売買していたアハドは、18歳までにタブリーズの絨毯バザールの一角に自らの店を構えるまでになります。
しかし、そんな若い彼には徴兵検査が待ち受けていました。

絨毯に注ぐ並々ならぬ愛情から兵役を免除されたアハドは、世界を相手に絨毯ビジネスを展開することを考え始めます。
そのための調査として彼はドイツに向かいました。

ドイツで世界中の裕福な人々が珍しい絨毯を求めてヨーロッパに来ることを知った彼は、更にジュネーブに行き言葉の壁に突き当たりながらも情報収集に勤しみます。
そうして得た情報を携えて帰国したアハドがとりかかったのは、円形のペルシャ絨毯の製作でした。

この斬新な作品はたちまちのうちに人気となり、イランの絨毯界に革新をもたらしました。
やがて彼はタブリーズに二つの絨毯工房を開設して300人の織師を雇い、その後、イスファハンにも工房を構えます。

アハドは再びヨーロッパへと向かい、どの国でどの色柄やサイズが好まれるかを調査。
帰国後、調査した国に合った絨毯の製作を開始するとともに、首都テヘランに店舗と倉庫とを購入し、海外との取引の拠点にしました。
こうした活動による彼の名声は広く知れ渡り、2001年にはイギリスで手織絨毯部門におけるインターナショナル・ゴールデン・トロフィーを授与されます。

それから間もなくしてテヘラン市内にイランでも最大規模のペルシャ絨毯展示場を開設したアハドは、ニューヨークで絨毯業界でもっとも成功したトレーダーとしてプラチナ賞のトロフィーを授与されました。

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アフマド・エマド工房

アフマド・エマド工房

アフマド・エマドは1908年、タブリーズに生まれました。
彼は自宅で小さなペルシャ絨毯を織り始め、やがてタブリーズのムスタザルフェ芸術学校に入学。
細密画と装飾工芸を学んだ彼は、ミール・モスールの作品に影響を受けます。

その後、ホセイン・ターヘルザデ・ベフザードの招きでテヘランに行き、サーダバード宮殿に敷くペルシャ絨毯の製作に参加。
タブリーズでそのいくつかの製作にあたりました。

その後イースタン・ラグ社などの外国企業と取引していましたが、やがて経営は傾き、アフマドの所有する大規模な絨毯工房は閉鎖されるに至ったといいます。
彼は2002年、タブリーズで没しました。

アフマドの作品は剣を想像させるシャープなアラベスク文様と、深みのある赤色に特徴があります。
銘は織り込まれていませんが、それらの特徴から容易に判別することができます。

【アフマド・エマドの作品】を見る。

イブラヒム・シールファル工房

イブラヒム・シールファル工房

イブラヒム・シールファルは1954年、タブリーズのアフバル地区に生まれました。
父親のナギー・シールファルは1926年にタブリーズに絨毯工房を開設しており、イブラヒムは僅か1歳で父親が製作するペルシャ絨毯に興味を示したとされます。

やがて父親のもとでペルシャ絨毯のデザインとカラーリングを学んだ彼は、1976年に自身のデザインによる作品を製作。
その出来栄えに人々は賞賛の声を惜しみませんでした。

当時イブラヒムは最年少の意匠師であり、そんな彼をイスマイル、モジュタバの2人の10歳代の弟が手伝っていました。
その後1993年に父親が亡くなると、イブラヒムは弟たちと共に工房を引き継ぎ、父親の作品をより素晴らしいものへと昇華させるべく力を注ぎました。

のちにパデルという名の棟梁とバラーダルという名の意匠師を迎えた工房は、今日100種以上のデザインと優れた職工を持ち、タブリーズを代表するペルシャ絨毯工房の一つとなっています。

【イブラヒム・シールファルの作品】を見る。

セイエド・アボロファテフ・ラッサム・アラブザデ工房

セイエド・アボロファテフ・ラッサム・アラブザデ工房

セイエド・アボロファテフ・ラッサム・アラブザデは1914年、タブリーズに生まれます。
父親は画家でしたが当時のイランはカジャール朝末期の混乱期にあり、失業と貧困から抜け出すため首都テヘランに向かう者はタブリーズでも後を絶たず、ラッサム家もそうした中の一家族でした。

移住後、アボロファテフは兄とともにテヘランの学校に通い始めますが、アゼルバイジャン語を母語とする彼がペルシャ語で行われる授業についてゆくのは大変であったといいます。
そんなハンディを負いながらもアボロファテフは優秀な成績を修めていました。
しかしテヘランでの生活は予想を下回るものであり、父親が描いた絵は売れない日も多く、やがて家族はタブリーズへ戻ることになります。

タブリーズに戻った彼はラシュディ工学校に入り、6年生まで同校で学びました。
夏休みになるとアボロファテフは午前中をペルシャ絨毯織りの職人として、午後からは父親が営む絵画店で聴覚障害を持つ父親の手足となって働きましたが、そんな彼の絵画の実力は教師たちも認めるほどで、卒業後はラッサム・アルジャンギが院長をつとめるタブリーズ芸術学校に入学。
細密画を学び始めました。
ところが母親が死亡して父親が再婚すると、アボロファテフは父親の求めにより弱冠16歳で結婚することを余儀なくされます。
結婚により彼の夢は遠ざかったかのようでしたが、アボロファテフは生活費を切り詰めて再びテヘランに行き、タイル店の意匠師として、また映画館の看板師として働きながら伝統工芸学校に学び、やがて自らの絵画教室を開きました。

そんなおり第二次世界大戦が勃発。
アボロファテフはタブリーズに戻ってアトリエを開設するとともにペルシャ絨毯製作を始めますが、生活に余裕はなく、彼が最初に製作したペルシャ絨毯は借金のかたとして持ち去られたといいます。
その頃アボロファテフが手がけたペルシャ絨毯は有名人の肖像を織り出したユニークなものでした。
1941年にソ連軍がアゼルバイジャン地方へ侵攻すると市民の生活は混乱します。
政治は迷走し経済は崩落。
そんな状況を彼は治世への痛烈な批判を込めて風刺画にしました。
アボロファテフが描いた風刺画はとてもわかりやすく、たちまち人気になります。

その風刺画をペルシャ絨毯に織り出した彼はテヘランへ行き、赤新月社(レッド・クレセント)が主催するオークションで販売。
テヘランにおける経済活動の中心地の一つであるラーレザール地区に工房を構えてペルシャ絨毯製作を始めました。
アボロファテフの作品はイランにおけるペルシャ絨毯意匠の伝統を大きく逸脱したものであり、それに眉を細めるペルシャ絨毯作家や愛好家は少なくなかったといいます。
賛否両論の中で彼は次々に革新的作品を世に送り出し、各地で展示会を開催しました。
アボロファテフは1996年に没し、故郷のタブリーズに埋葬されました。

【セイエド・アボロファテフ・ラッサム・アラブザデの作品】を見る。

セイエド・ネザム・アフサリ・カシャーニ工房

セイエド・ネザム・アフサリ・カシャーニ工房

セイエド・ネザム・アフサリ・カシャーニは1931年、画家でありペルシャ絨毯の意匠師でもあったミールザ・アフシャリ・カシャーニの次男としてカシャーンに生まれました。
わずか8歳で小さなペルシャ絨毯の意匠図を描いたとされる彼は、学校に通いながら絵を描き続け、やがて英国王ジョージ6世の肖像画絨毯の製作を依頼されます。
ネザムは国王の写真を取り寄せてもらい、熟練工の手によってそれを完成させました。
彼はロンドンに招待され大学の名誉議長就任の誘いを受けますが、母親は16歳にも達していない彼を制したといいます。

そんなネザムの名はテヘランでも知られるようになり、宮廷から帝室の紋章である太陽を背負ったライオンの絨毯を製作するよう依頼されました。

彼は1954年にいとこのマヒン・ドフト・アフサリと結婚し、シャマック、ババク、サロメの3人の子供を授かりました。
妻であるマヒン・ドフト・イーマニ(アフサリ)はネザムが描いた意匠図を用いて絨毯を製織。
1958年にはブリュッセルで開催された万国博覧会に夫とともに招待され、イラン女性としては初めて芸術部門の金メダルを受賞します。

1971年、ネザム夫婦はニューヨークのメトロポリタン美術館に招かれ、絨毯織りを披露。
数年後にはイラン政府からソビエト革命50周年の記念にモスクワに贈るためのレーニンと母親の肖像画絨毯の製作を依頼されました。
完成した作品はクレムリンの壁を飾り、ネザムはレーニン勲章を贈られます。

彼はタブリーズに工房を構えて自身の作品を製作していました。
そのデザインはきわめてユニークで他のタブリーズの絨毯作家たちの作品とは一線を画していました。
自らの作りたい作品を作るため、公の機関からの誘いを断っていたネザムですが、晩年は糖尿病に苦しみます。
合併症により失明し、腎機能が著しく低下した彼にはもはや絨毯作家としての活動はできませんでした。
ネザムは2007年にテヘランのイラン・シャハル病院で亡くなりました。

【セイエド・ネザム・アフサリ・カシャーニの作品】を見る。

セイエド・モハンマド・サデク・ジャリリ工房

セイエド・モハンマド・サデク・ジャリリ工房

生没年不詳。
「ハジ・ジャリリ」として知られるセイエド・モハンマド・サデク・ジャリリは、イランにおける絨毯産業の復興期に活躍した絨毯商で、当時もっとも名を知られた絨毯作家でもありました。
19世紀後半にペルシャ絨毯の輸出事務所をイスタンブールに開設した彼は、1880年にタブリーズ郊外のマランドで絨毯製作を始めたと伝えられます。

モハンマドはヨーロッパ人が好むデザインや色に精通していたといわれ、それらを採り入れた絨毯を製作することで事業を拡大してゆきます。
その作品はサファヴィ朝期のペルシャ絨毯のデザインに着想を得た宮廷風のデザインを、オレンジとブルー、ゴールドとグレーなどの明るい色を組み合わせて織り出した独特のものとして有名でした。
彼はスーフィー(イスラム神秘主義)哲学を履修していたといわれ、作品にはその影響が垣間見られるのも特徴です。

良質な素材を用い、当時最高の腕を持った織師が作成したモハンマドの作品は50ラジの緻密さをもって製作されていました。
モハンマドの没後、事業は子孫たちに引き継がれ、イスラム革命までにロンドン、ブリュセル、デュッセルドルフ、ハンブルク、フェンロー(オランダ)にサテライト・オフィスが開設。
またテヘランに開設された事務所はフランス、オーストリアなどの国々の有名な絨毯商との取引の窓口になっていたといいます。
1979年にはサンフランシスコ事務所が開設され、現在は4代目であるカンビズ・ジャリリがジャリリ・インターナショナルの代表になっています。

【セイエド・モハンマド・サデク・ジャリリの作品】を見る。

タバタバイ工房

タバタバイ工房

生没年不詳。
タバタバイはモハンマド ・レザー・シャー治世下のタブリーズにおいて、もっとも名を知られた絨毯作家の一人です。
かつて米国に向けてかなりの数が輸出されていたため、今日でも米国のオークション・サイト等で彼の作品を目にする機会は多く、中にはタバタバイのサインが織り込まれたものもあります。
しかし、その知名度とは裏腹に謎の多い人物であり、その生涯や人物像に触れた資料は皆無に等しく、フルネームさえ定かではありません。

彼の作品は独特のデザインと色、構造から容易に判別することができます。
デザインはオーソドックスなメダリオン・コーナーから人物や動物を織り出した絵画調のものまで多岐に渡っていますが、ボーダーの内周と外周に櫛状の文様が配されており、それが最大の特徴です。

色はアイボリーやオレンジ、ライトブルーを主にした明るい色調。
構造はビジャー絨毯を思わせるきわめて強固な作りで、それゆえ分厚く重いものとなっています。

タバタバイの作品の多くは30ラジから35ラジで織りは決して緻密とはいえませんが、その頑強さからとりわけ米国で大変人気がありました。
しかしイラン革命によってイランが米国と断交すると、主要な顧客を失った彼は工房を閉鎖せざるを得なかったと伝えられます。

その後、インドでは米国向けにタバタバイの作品のコピーが製作されるようになりました。
コピー品は見た目はそっくりでしたが頑強さがなかったため思うように売れず、インド人たちはタバタバイのサインを入れて販売することを考えます。
しかし米国の絨毯商にいとも簡単に見破られてしまい、彼らの目論見は水泡に期したのでした。

【タバタバイの作品】を見る。

ホセイン・プールカゼム工房

ホセイン・プールカゼム工房

ホセイン・プールカゼムは1945年、タブリーズに生まれました。
父親は絨毯意匠師で絨毯作家でもあったラヒーム・プールカゼムで、小学校を卒業したホセインは父親のもとでペルシャ絨毯のデザインを学びながら生産から輸出まで、絨毯商・絨毯作家としてのノウハウを身に着けます。

1973年に独立した彼は、シャフサバルプール、ファザーエリ、アジーミ、ホシュハクらタブリーズの絨毯作家たちの注文を受けて多くのデザインを作成しました。
彼はまたマシャドの絨毯作家であるシシキャラニにデザインを提供。
ホセインのデザインをもとに製作されたシシキャラニの作品は、マシャドで好評を博しました。

ペルシャ絨毯だけでなく、タオルやテーブルクロスの製作にもかかわっていた彼ですが、2015年に70歳で亡くなりました。

ミール・マフムード・ホセイニ工房

ミール・マフムード・ホセイニ工房

「アリナサブ」一家の一人として知られるミール・マフムード・ホセイニは1954年、タブリーズに生まれます。
父親のミール・アリー・アクバル・ホセイニはアリナサブ(高貴な家柄)とよばれる絨毯作家で、小学校を卒業した12歳のミール・マフムードは、昼は父親のもとで絨毯製作を学び、夜は高等専門学校に通いました。
1977年に彼はタブリーズを離れてテヘランのテレビ映画学校に入学。
電子工学を学び、2年後にに同校を卒業するとタブリーズに戻って国営テレビの技師として働きはじめました。

1987年、国営テレビを退職したミール・マフムードは小さな工房を開設し、絨毯作家としての活動を開始します。
テレビ局の技師として培った経験をもとに、精巧なピクチャー絨毯の製作に挑んだ彼の作品は、三次元的表現を用いたリアリティに満ちたものでした。

またマフムード・ファルシュチアンの描く超現実的な絵画に魅了されたミール・マフムードは、それらを絨毯上に再現することを考えます。
彼はやがて、サルバドール・ダリをはじめとするシュール・リアリズムの画家たちの作品を織り出したピクチャー絨毯を数多く製作するようになりました。

2000年に父親が亡くなってからはアリナサブ一家のグランドマスターとして、弟のミール・アフマド、ミール・サタール、ミール・ファターとともにアリナサブ・グループを結成。
テヘランにアリナサブ・ギャラリーを開設しました。

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モハンマド・アリー・ガラバギ工房

モハンマド・アリー・ガラバギ工房

モハンマド・アリー・ガラバギは1943年、タブリーズに生まれます。
父親はロシアのナゴルノカラバフからイランに移り住んだアルメニア人で、タブリーズで絨毯作家として活動していました。
モハンマドは13歳で画家のバジュランルーに師事し、一年後にラヒーム・プールカゼムの工房に行き6年間修業しました。
1963年、20歳になった彼は独立し自身の最初の作品を製作します。
その作品はすぐに買い手が付き、仕事は徐々に軌道に乗ってゆきました。

モハンマドは伝統を重視しながらも、それに新たなエッセンスを加えることこそが現代に生きる意匠師の使命であると考えており、それを常に作品に反映させてきました。
また彼はメカニックを熟知したドライバーの如く、意匠師として成功する鍵は自らプロデュースして絨毯を製作することであるとして、デザインを販売することをしませんでした。

彼は現在大学で教鞭をとり、後進の育成にあたっています。

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モハンマド・クーバンファル工房

モハンマド・クーバンファル工房

モハンマド・クーバンファルは1947年、タブリーズに生まれました。
彼は他に類を見ない立体絨毯の考案者として知られ、「絨毯王」とよばれています。

立体絨毯の製作を思いついたモハンマドは3年に及ぶ製作期間をかけ、1986年頃に世界で最初の立体絨毯を完成させました。
糸の染色、整形、カービングは彼自身が行い、パイル織りが施された99の部品を組み合わせて完成した壺形のペルシャ絨毯は驚きをもって迎えられ、彼の名は世に知れ渡るようになります。

更にモハンマドは持ち手と注ぎ口とが付いた水差しや表面に凹凸が施された壺、高さ165センチの実物大のハズラテ・マリアム像やペルセポリスの壁面レリーフを再現した立体絨毯を製作しました。

1992年、彼はイスファハンのイマーム広場にあるイマーム・モスクのイワーン(門)の立体絨毯の製作にとりかかります。
土木技師が一年半をかけて設計し、4人の常勤織師と40人の非常勤織師とが4年半をかけて製織したこの絨毯は、実物の4分の1スケールで高さ6メートル20センチ、幅6メートル、奥行1メートル10センチ。
1999年に完成したこの巨大な作品には83色もの色糸が使用されています。

その後モハンマドはモダン・アートの立体絨毯も手掛けるようになりました。

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ラヒーム・プールカゼム工房

ラヒーム・プールカゼム工房

ラヒーム・プールカゼムは1923年、タブリーズに生まれました。
父親のモハンマド・プールカゼムは絨毯商であるとともに絨毯作家であり、ラヒームは少年期から色とりどりの花々や流麗なイスリムを描いたペルシャ絨毯のデザインに魅了されていたといいます。

初等教育を終えると彼は名を知られた絨毯作家であるイブラヒム・レザイやアフマド・エマドに師事。
見習い期間を終えるとエマドの工房で意匠師として働きました。

やがてラヒームは自ら絨毯製作に乗り出します。
1945年に最初の絨毯織りの工房をタブリーズ市内のラステ通りに構え、すべての工程を監督。
数年後には工房をガレ・アーガージュ地区に移転しました。

自身の工房における製作にとどまらず、彼はマララン地区にあるマスタニ工房を始め、市内各所の絨毯工房に製作を依頼し始めます。
そうして完成した12枚のペルシャ絨毯のほとんどは40ラジ以上の緻密さを持ち、ラヒームの名を知らしめるきっかけになりました。

その後、絨毯商のトラビと取引を始め、更にカラフィ、モハンマディ、ナロニらとともに商社イラン・カーペット・インダストリーズを設立した彼は、国内外における数々の展示会に出展。
その革新的な作品は世の人々の注目を集めることとなりました。
ラヒームの作品のいくつかには、ミールザ・モフセン・アディーブ・アルウラマーによる詩が織り込まれています。

没年不詳。

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ナインの有名工房

ファットラー・ハビビアン・ナイニー工房

ファットラー・ハビビアン・ナイニー工房

ファットラー・ハビビアン・ナイニーは1903年、ナインに生まれました。
職業訓練校の学生であったとき、ファットラーは初めて製作したペルシャ絨毯をイスファハンに持って行き、意匠図付きで100トマンで売ったといいます。
そんな彼の父親はナインでアバー(イラン風外套)織りの工房を営んでいましたが、洋服の普及によりアバーの需要は激減。
廃業は目前に迫っていました。

1921年頃、ファットラーは兄のモハンマドとともに父親の工房を引き継ぎ、ペルシャ絨毯の製作を始めます。
長年アバー織りに携わってきた職工たちの技術はそのまま絨毯織りに生かされ、ハビビアン兄弟の作品は高い評価を得るに至りました。
1940年代にはベージュ色を基調とした斬新な色調のペルシャ絨毯を製作。
その作品はロンドンでたちまち評判となります。

ハビビアン兄弟の成功に触発されたナインのペルシャ絨毯作家たちはいっせいに同じ色調のペルシャ絨毯を製作すようになり、以後ナイン絨毯の定番となりました。
今日、兄弟が「ナイン絨毯の父」とよばれるのはこのためです。
兄のモハンマドは1986年に亡くなり、その後はファットラーが孫たちに手伝ってもらいながら工房を運営していましたが、1994年に永眠しました。

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ファルハド・ババジャマリ工房

ファルハド・ババジャマリ工房

ファルハド・ババジャマリは1959年、イスファハンに生まれました。
父親はイスファハン州にいくつかのペルシャ絨毯の工房を持っており、初等教育を終えたファルハドは12歳から父親のもとで働き始めます。
20歳でホメイニ・シャハルの工房の支配人となった彼は、2年後にモバラケの工房の支配人となり、1985年からはナインの工房の生産管理とデザイン制作を任されました。

2001年、ファルハドはイスファハン芸術大学の専任教員となります。
翌年からはイスラム・アーザード大学(ナジャファバド)、シャハレコレド大学、応用科学技術大学(テヘラン)でも教鞭をとりはじめ、2003年には全国の農業聖戦センターで絨毯応用コースの講師を務めました。
その後、2007年にイスファハン芸術大学付属ナイン芸術学校の設立に参画。
同校の教員を兼任しました。

2012年に『地理的要因と住民のアイデンティティーとがもたらすペルシャ絨毯への影響』と題した論文でイスファハン大学から博士号を授与された彼は、現在もペルシャ絨毯に関する様々な研究に勤しむとともに、自らが製作したペルシャ絨毯のデザインを本にまとめる作業を行っています。
すべてのサイズを一括するとデザインの数は500以上に及ぶとされますが、とりわけ「ババジャマリ・チェーン」と俗称される鎖状の文様を用いてメダリオンやフィールドの周囲を囲んだ作品は有名です。

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マシャドの有名工房

アッバス・ゴリー・サーベル工房

アッバス・ゴリー・サーベル工房

アッバス・ゴリー・サーベルは1901年、アゼルバイジャンに生まれます。
父親のアボロカゼム・サーベルはアゼルバイジャンに家を持ち羊毛や毛糸を商っていましたが、ソ連軍の侵攻によりすべての資産を失い、サーベル家は着の身着のままアゼルバイジャンを後にせざるを得ませんでした。
いくつかの町を転々とした後、家族はマシャドに辿り着きます。
のちにアッバスは「マシャドに来たばかりの私たちはパンを買うことさえできなかった」と述懐していますが、このとき彼は30歳になっていました。

困窮の極みにある家族のもとに、同じアゼルバイジャンからの避難民が大規模な絨毯工房を経営しており、そこで働く棟梁を探しているという話が舞い込みます。
工房の経営者であるアブドルモハンマド・アモグリに面会した父親は、早速彼の工房で働きはじめることになりました。

時を同じくして宮廷から巨大なペルシャ絨毯の注文が入ったため織師を増やしたい旨をアモグリから聞いた父親は、学校教育を受けたアッバスを工房へ連れてゆきます。
アッバスはアモグリのもとでペルシャ絨毯の意匠について学ぶとともに織りの仕事に励み、すぐに1台の織機を任されるようになりました。
数年後、アッバスは独立し、2台の織機をマレク・キャラバンサライに設置。
自身の作品を製作しはじめます。
完成した絨毯はマシャドで評判になり、注文は徐々に増えてゆきました。

1939年、そんな彼に大きな転機が訪れます。
マシャドの地主であり商人としても有名であったハジ・アガー・トゥトゥンチーがアッバスの工房を訪れ、ペルシャ絨毯を注文するとともに投資を申し出ました。
トゥトゥンチーの投資により2台の織機はたちまちのうちに43台に増え、やがて200台へとなります。
工房は殉教者交差点に近い広い場所へと移され、職工の数は350人以上に膨れあがりました。

アッバスが製作する絨毯はアモグリの作品と同等の品質でありながら安価であったため、マシャドの官庁や富豪たちからの注文が殺到し、生産量はアモグリのそれを超え、評価を二分するまでになります。
その後、彼はマシャドのイマーム・レザー廟をはじめとする歴史上の有名人の霊廟のためにペルシャ絨毯を製作しました。
アッバスは1978年に亡くなり、イマーム・レザー廟の近くに埋葬されました。

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アブドルモハンマド・アモグリ工房

アブドルモハンマド・アモグリ工房

アブドルモハンマド・アモグリは1870年頃、タブリーズに生まれました。
父親のモハンマド・カフネモイはオスコとカンドバンの間にあるカフネモイ村の出身で、タブリーズで生糸と絹織物の貿易に携わっていました。
1871年にモハンマドは家族とともにマシャドに移住。
姓をアモグリに変え、ペルシャ絨毯の工房を開設しました。

モハンマドには二人の息子がおり、長男のアブドルモハンマド、次男のアリーハーンともにマシャドでペルシャ絨毯の織師として働いていましたが、やがてアブドルモハンマドが父親の工房を引き継ぎ、アリーハーンがそれを手伝うようになります。
彼の作品のほとんどはオーダーメイドであり、英国から取り寄せた2冊のサファヴィー朝期の絨毯の図鑑を顧客に見せてデザインを決め、意匠図はケルマン出身のアブドルキャリームやアブドル・ハミド・サナートネガルが作成しました。

彼の作品の中でも1935年に製作され、テヘランの国会議事堂に納められた25平米のシェイフ・サフィ文様のペルシャ絨毯。
1934年から1936年頃に製作された86平米の狩猟文様絨毯は最高傑作といわれています。
ペルシャ絨毯研究家として知られたセシル・エドワーズは「私は50年にわたり西アジアやイランの各地で様々な絨毯の名品を見てきたが、アモグリが製作した絨毯は世界でもっとも素晴らしい絨毯の一つである」と著書に記しました。

アブドルモハンマドはマシャドから6キロ離れたマフムーダバード、マシャドとドロクシの間にあるトルカベに工房を持っていましたが、のちにマフムーダバードの工房をカリル・カディビに売却。
マシャド市内のアフシャル通りに数十人の職工を擁する大規模な工房を構えました。
彼は1937年に亡くなり、工房は弟のアリーハーンが引き継ぎました。

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アフマド・バズミ・モガッダム工房

アフマド・バズミ・モガッダム工房

アフマド・バズミ・モガッダムは1950年、マシャドに生まれます。
父親はモッラー・ハシェム・モスクの水運び人でしたが、母親はペルシャ絨毯の織師一家の出で、彼女自身ペルシャ絨毯の織師として働いていました。
幼いアフマドはそんな母親から絨毯織りを学んだといいます。

病気を患った母親が21歳でで亡くなったとき彼は6歳でしたが、生活のため母親に代わって働くざるを得ませんでした。
アフマドはサーベルの工房に行き、ペルシャ絨毯の織師として働き始めます。
彼は懸命に仕事に励み、また人一倍ペルシャ絨毯に愛情を注ぎました。
そんなアフマドをサーベルはとても可愛いがったといいます。
彼は16歳で2台の織機を任され、20歳を過ぎた頃には複数の部門の責任者に任命されました。
サーベルはアフマドにとって人生の師であり目標とする人物でもありました。

サーベルは1978年に亡くなりますが、9人の子供たちのいずれもが工房を引き継ぎませんでした。
義理の息子であるホセイン・アルバブがそれを引き継いだものの、アルバブの死後、工房は再び閉鎖されます。
1991年、アフマドは工房を自ら引き継ぐことを決め、サーベルの遺族の了承を得て絨毯製作を再開しました。
今日工房はバズミの名で運営されていますが、サーベルの時代に同じく意匠図は手描きにより作成されています。

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アリーハーン・アモグリ工房

アリーハーン・アモグリ工房

アリーハーン・アモグリは1892年、マシャドに生まれます。
アリーハーンはペルシャ絨毯作家であったモハンマド・アモグリの次男であり、父親の死後、工房を引き継いだ兄のアブドルモハンマドの力を借りながらペルシャ絨毯作家としての道を歩み始めました。

アリーハーンは兄と同様、糸の染色に大きな拘りを持っており、自らが考案した方法で糸を染色したといわれます。
とりわけ彼が染めた深い赤色は比類のない光沢と透明度を持っており、アモグリ工房の作品の評価を高める役割を果たしました。

1937年に兄が亡くなると、アリーハーンは工房を引き継ぎます。
意匠図の作成は引き続きアブドルハミド・サナートネガルが担当。
銘にはアリーを意味する「110」の数字が加えられるようになりました。

彼の代表作として知られるのはパフラヴィー2世の執務室の壁に吊られていたペルシャ絨毯と、国民銀行本部の会議室に敷かれている12平米のペルシャ絨毯です。
アリーハーンが最後に製作したのは上院に納められた大きなペルシャ絨毯でした。
彼は1957年に65歳で亡くなり、イマームレザー廟の中庭に埋葬されました。

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カゼム・シシキャラニ工房

カゼム・シシキャラニ工房

カゼム・シシキャラニは1922年、マシャドに生まれました。
8歳で絨毯を織りを始めたと伝えられる彼は、のちに絨毯作家となるカリル・ハリビとともにアモグリの工房で働き始め、スキルを身に着けたといいます。
のちに独立して自らの工房を開設した彼は、サーベルに続きモハンマド・レザー・シャーの時代を代表するマシャドの名匠として知られるようになりました。

カゼムの作品はサーベル同様、コチニール・レッドやアイボリー・ホワイトの地にシャー・アッバスのパルメットを一面に配したメダリオン・コーナーとアフシャン(総文様)がほとんどで、奇をてらったものを目にすることはありません。
しかし、それこそが20世紀最高の絨毯作家として讃えられるアモグリから受け継いだ血流であり、伝統の継承者としてのプライドでもあったのでしょう。

没年不詳。

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モハンマド・イブラヒム・マフマルバフ工房

モハンマド・イブラヒム・マフマルバフ工房

生没年不詳。
モハンマド・イブラヒム・マフマルバフは、20世紀前半に活躍したマシャドの絨毯商兼絨毯作家です。

彼はマシャドの自宅の隣に61台の織機を置いた大規模な工房を。
マシャドの別の場所とトルカベにそれぞれ4台の織機を置いた小さな工房を持っていました。
主に政府関係者のために多くのペルシャ絨毯を製作しており、作品には「アマレ・マフマルバフ」(マフマルバフの作品)の銘が織り込まれています。

モハンマドは染色も自らで行い、天然染料によるその色の美しさは伝説にさえなっていますが、晩年は認知症を患い、そのレシピを明かすことなく没しました。

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