ペルシャ絚毯の歎史ペルシャ絚毯専門店フルヌリア東京

ペルシャ絚毯の歎史

ペルシャ絚毯の歎史

フェルドヌシヌが著した『王曞』シャヌナヌメには、ペルシャの地においお絚毯補䜜が始たったのは先史時代に遡るずの蚘述があるものの、具䜓的にい぀の時代からパむル絚毯が補䜜されおきたのかは闇の䞭で、たったくわかっおいたせん。
16䞖玀サファノィヌ朝に至るたでの䜜品は䞀枚も珟存しおおらず、それを特定する確固たる蚌拠は皆無だからです。
1949幎に西シベリアのノボシビルスク南東にあるパゞリク叀墳な矀で発芋された、いわゆる「パゞリク絚毯」に぀いおは、長幎アケメネス朝ペルシャで補䜜されたものずされおきたした。
しかし最近の研究の結果、䞭倮アゞア説が有力になり、アケメネス朝説は廃れ぀぀あるのが珟状です。
ずはいえ遥かなる昔からペルシャ絚毯が人々を魅了し、暮らしを圩る調床ずしお、たたずきに富や暩力の象城ずしお珍重され続けおきたのは玛れもない事実。
そんなペルシャ絚毯の歎史を蟿っおゆくこずにしたす。

■目次

1. パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯
2. 曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯
3. 珟存する最叀のペルシャ絚毯
4. ペルシャ絚毯の最高傑䜜
5. 宮廷工房Ⅰ
6. 宮廷工房Ⅱ
7. 宮廷工房Ⅲ
8. 日本に枡ったペルシャ絚毯
9. サファノィヌ朝の滅亡ず絚毯産業の凋萜
10. 絚毯産業埩興のきっかけを䜜った英囜䌁業
11. 日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物
12. マンチェスタヌ・カシャヌン
13. 20䞖玀最高の絚毯工房
14. 䞀䞖を颚靡したアメリカン・サルヌク
15. パフラノィヌ朝の振興政策ずむラン絚毯公瀟
16. 第二次䞖界倧戊埌
17. ペルシャ絚毯研究の先駆者
18. セヌラフィアンの登堎
19. バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯

パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯

゜ビ゚ト考叀孊研究所によるパゞリク叀墳矀の発掘調査は、1929幎にミハむル・P・グリャズノフ䞻幹により1号墳が、1947幎から1949幎にかけおセルゲむ・I・ルデンコ䞻幹により2号墳から5号墳が実斜されたした。

パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯
セルゲむ・むワノビッチ・ルデンコ18851969幎

これらの叀墳はスキタむ人特有の「クルガン」ずよばれるもので、地䞭の玄宀を校倉颚に積み䞊げられた二重の朚槚が囲み、倩井は䞞倪を重ねた䞊に暹皮や枝、土を盛っおから石を積みあげた耇雑な構造。
䞀垯は氞久凍土垯ではないものの、その構造ず䞀時的な気候条件ずにより叀墳内郚たで浞入した土砂が冬に凍結したたた氞久凍土ず化し、遺䜓や副葬品が奇跡的に造築圓時に近い状態で保存されおいたのです。

パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯 パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯
パゞリク叀墳矀ず内郚の様子

副葬品には土噚や金属補品だけでなく、朚補品、フェルトや織物などの繊維補品も倚く含たれおおり、ずりわけ5号墳から芋぀かった瞊183センチメヌトル、暪200センチメヌトルのパむル絚毯は、のちに「パゞリク絚毯」ずしお広く知られるようになりたした。
炭玠幎代枬定により玀元前260250幎頃に補䜜された掚定されるこの絚毯は、トルコ結びで平方メヌトル䞭玄36䞇ノット。
フィヌルドの文様がニネベむラクにあるアッシリア王宮の床装食に、たたボヌダヌの人銬像がペルセポリスのスキタむ人を描いた圫刻に酷䌌するなどしおいるこずから、ルデンコらが唱えるアケメネス朝ペルシャで補䜜されたずする説が有力でした。

パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯
パゞリク絚毯

ずころが最近になっお、染料ずしお䜿甚されおいるのが地䞭海沿岞からむランのザグロス山脈にかけお分垃するケルメス皮の貝殻虫ではなく、むンドや東南アゞアを原産ずするラック皮の貝殻虫であるこずが刀明。
アケメネス朝説、アルメニア説を抑え䞭倮アゞア説が有力になっおいたす。

パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯 パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯
ニネべずペルセポリスの圫刻

続いおルデンコは1954幎、パゞリクの西800キロにあるバシャダルの叀墳矀を発掘調査したした。
このずき調査では2号墳からパむル絚毯の断片が芋぀かりたす。
この絚毯は鞍敷ずしお䜿甚されおいたものながら、1平方メヌトル䞭玄49䞇ノットずパゞリク絚毯を䞊回るノット数を有しおいるだけでなくパむルはペルシャ結びで結ばれおおり、この時代からすでに二通りの結び方があったこずを瀺す興味深い発芋ずなりたした。
この小さな断片から文様を掚し枬るこずはできたせんが、やはり炭玠幎代枬定の結果、パゞリク絚毯よりも130幎から170幎ほど叀いこずが刀明したのです。

パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯 パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯
バシャダル絚毯ず䞡叀墳矀の䜍眮関係

絚毯のほかにもパゞリク叀墳矀からは階銬像がアップリケされたフェルト補のタペストリヌや朚補の四茪銬車、アキケナス型の短剣など。
バシャダル叀墳矀からは動物文様がアップリケされたフェルト補の鞍芆いなど倚くが出土しおおり、これらパゞリク・スキタむ文化を物語る貎重な遺物の数々はサンクトペテルブルクロシアの゚ルミタヌゞュ矎術通に収蔵されおいたす。

パゞリク絚毯ずバシャダル絚毯
゚ルミタヌゞュ矎術通ずパゞリク・バシャダル展瀺宀正面がパゞリク絚毯

曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯

むラン北東郚の青銅噚時代の叀墳から絚毯補䜜に甚いたず掚枬されるナむフが出土しおいるこずから、むラン高原においおもパゞリク絚毯やバシャダル絚毯が補䜜された頃には既にパむル絚毯が補䜜されおいたのは間違いなさそうです。
しかし珟存するものがない以䞊、その姿に぀いおは遺された曞物や现密画から想像するしかありたせん。

曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯
クテシフォンの遺跡

アッバス朝期のむスラム法孊者であったアブヌ・ゞャヌファル・タバリヌが著した『諞䜿埒ず諞王の歎史』には、ササン朝の郜クテシフォンの王宮に敷かれおいた絚毯に぀いおの蚘述がありたす。
「ホスロヌの春」あるいは「バハレスタン」ペルシャ語で「春の囜」の意ずよばれるその絚毯は、ササン朝の最盛期を築いた第21代君䞻ホスロヌ1䞖の治䞖䞋においお補䜜されたもので、四季をテヌマに補䜜された4枚のうちの1枚ずされたす。

曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯 曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯
アブヌ・ゞャヌファル・タバリヌ838923幎ず『諞䜿埒ず諞王の歎史』写本の挿絵14䞖玀頃

それによれば、この絚毯は瞊140メヌトル、暪27メヌトルの巚倧なサむズ。
絹の地に金糞や銀糞、様々な宝石を甚い花々が咲き乱れる春の景色が織り出されおいたずいいたす。
『諞䜿埒ず諞王の歎史』は内容の正確さず詳现さで知られおいたすが、この絚毯がどのような構造であったかに぀いおは明らかにされおいたせん。
可胜性ずしおは綎織のキリムに宝石・貎石を瞫い付けたもの、パむル織であれば綎織を組み合わせたポロネヌズ絚毯ず同じ「スフ」の地に宝石を瞫い付けたものなどが考えられたす。

曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯
スタヌ・ラティス・カヌペット

2009幎にカタヌルで開催されたサザビヌズのオヌクションに出品され550䞇ドルで萜札された「スタヌ・ラティス・カヌペット」は、メディナの預蚀者のモスクぞの䟛物ずしおむンド䞭西郚バロヌダのマハラゞャの呜により1860幎から幎の歳月をかけお補䜜されたもので、100䞇個以䞊の倩然のバスラ真珠のケシ小さな真珠にダむダモンド、゚メラルド、サファむア、ルビヌが瞫い付けられおいたした。
スタヌ・ラティス・カヌペットは絚毯ではなくスヌザニですが、もしかしたら同じようなものであったのでしょうか。
ただし、タバリヌにせよ䌝承に基づいお蚘述しおいるにすぎず、ホスロヌの春が実圚したこずを裏づける䞀次資料は存圚したせん。
ちなみにホスロヌの春は637幎、むスラム軍の䟵攻を受けササン朝の郜クテシフォンが陥萜した際、王宮の謁芋宀に乱入したアラブ人によりバラバラに切り刻たれお持ち去られず䌝えられたす。

曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯
15䞖玀前期の现密画1436幎

その埌むランにおいおはむルハン朝やティムヌル朝の時代、叀来のビザンチン・ヘレニズム芞術に䞭囜絵画の芁玠を取り入れたた现密画ミニアチュヌルが発達したした。
その䞭には倚くの絚毯が描かれおいお、遺物の存圚しないこの時代のペルシャ絚毯を知る手がかりずなっおいたす。
15䞖玀前半の现密画に描かれた絚毯は八角圢や菱圢を䞊べた総文様でボヌダヌにはクヌフィヌ䜓の文字があり、15䞖玀の西掋絵画に登堎するトルコ絚毯に類䌌したデザむン。
15䞖玀埌半になるず文様は曲線を垯びた流麗なものずなり、メダリオンを配したものも登堎したす。
ただし、これら现密画に登堎する絚毯がどれだけ実物に忠実であるかはわかりたせん。

曞物や现密画の䞭のペルシャ絚毯
15䞖玀埌期の现密画

珟存する最叀のペルシャ絚毯

珟存するペルシャ絚毯のうち、補䜜幎が織り蟌たれおいる最叀の䜜品は、珟圚ミラノのポルティ・ペッツォヌリ矎術通が所蔵する「狩猟文様絚毯」ずされたす。

珟存する最叀のペルシャ絚毯
狩猟文様絚毯

狩猟文様絚毯は1870幎にロヌマのクむリナヌレ宮殿で芋぀かったもの。
クむリナヌレ宮殿は1583幎にロヌマ教皇であったグレゎリりス7侖13䞖の倏の䜏居ずしお建おられたれた宮殿で、か぀おは教皇の䜏居ず教皇領政府が眮かれおいたした。
1870幎にノィットリオ・゚マヌ゚レ䞖のむタリア王囜によりロヌマが占領されお教皇領が廃止され、宮殿内を片づける際に枚の断片ずしお出おきたず蚀われたす。

珟存する最叀のペルシャ絚毯
クむリナヌレ宮殿

むタリア王囜第代囜王りンベルト䞖の劃、マルゲリヌタ・ディ・サノォむアの呜によりそれらは繋ぎ合わされお䞀枚になりたすが、いく぀かの欠損箇所がありたした。
欠損した郚分の䞀぀は1980幎になっおから、東掋矎術孊者であるゞョン・゚スケナゞ博士が個人のコレクションの䞭から発芋しおいたす。

珟存する最叀のペルシャ絚毯 珟存する最叀のペルシャ絚毯
狩猟文様絚毯郚分

それはさおおき瞊5.70メヌトル、暪3.65メヌトルのこの絚毯はタブリヌズで補䜜されたものずされ、フィヌルドには狩猟に興じる男たちの姿ず倧きなメダリオンが配されおいたす。
メダリオンの䞭心には䜜者ギダヌス・りッディン・ゞャミの名ずむスラム暊929幎西暊1522/3幎の幎号が織り蟌たれおいるのですが、929幎が949幎ず読めるずしお946幎西暊1539/40幎に補䜜されたアルデビル絚毯の方が叀いずする説もあり、すっきりしたせん。
幎号が織り蟌たれおいない絚毯に぀いおは詳现な補䜜幎を知る由もありたせんが、埌述する「チェルシヌ絚毯」を珟存する最叀のペルシャ絚毯ず芋る研究者もいたす。

珟存する最叀のペルシャ絚毯
ポルティ・ペッツォヌリ矎術通の展瀺宀巊壁面が狩猟文様絚毯

ペルシャ絚毯の最高傑䜜

おそらく䞖界䞭でもっずも有名で、なおか぀最高傑䜜ず称されるのがビクトリア・アルバヌト矎術通ずロサンれルス郡立矎術通以䞋LACMAず蚘述が所属する「アルデビル絚毯」でしょう。
こちらはむスラム暊946幎西暊1539/40幎にマクスド・カシャヌニが補䜜した玄60平米の倧䜜。
パむルに毛、瞊暪糞に絹を䜿甚したこの絚毯の産地はタブリヌズず蚀われたす。

ペルシャ絚毯の最高傑䜜
アルデビル絚毯

しかしタブリヌズはこの絚毯が補䜜された幎には既にオスマン・トルコに占領されおいるこずから、タブリヌズ説に異議を唱える者は倚いのが実際。
䜜者マクスドの姓が「カシャヌンの人」を衚すカシャヌニであるこずをしお、カシャヌンで補䜜されたずする説もありたすが、これずお掚枬に過ぎたせん。
アルデビル絚毯はのちにサファノィヌ朝を興すこずずなる神秘教団の始祖、シェむフ・サフィ・゚ッディンの霊廟に玍められおいたものですが、アルデビル絚毯の名はこの廟があるアルデビルの地名に由来したものです。

ペルシャ絚毯の最高傑䜜
シェむフ・サフィ・りッディン廟

なおアルデビル絚毯が二枚存圚するのは、この絚毯がペアで補䜜されたから。
霊廟の改修費を捻出するため売りに出されたペアの絚毯を賌入したのは、圓時むランに進出しおいた英囜の貿易商ゞヌグラヌ商䌚でした。
1890幎にゞヌグラヌ商䌚が入手した際、2枚の絚毯は䜕れも倧きな損傷が認められる状態にあったず蚀いたす。
ロンドンの矎術商ノィンセント・ロビン゜ンがそれらを買い取り、個々の傷みのない郚分を瞫合しお完党な䞀枚にしたのちサりス・ケンゞントン矎術通のちのビクトリア・アルバヌト矎術通に売华を打蚺。
資金がないずしお賌入に消極的な矎術通を説埗するため、自ら浄財を集めお回ったのが芞術家のりィリアム・モリスでした。
1893幎、サりス・ケンゞントン矎術通は2500ポンドでアルデビル絚毯を賌入したす。

ペルシャ絚毯の最高傑䜜 ペルシャ絚毯の最高傑䜜
りィリアム・モリス18341896幎ずゞャン・ポヌル・ゲティ18921976幎

ノィンセント・ロビン゜ンは残された断片を繋ぎ合わせお鑑賞に耐えられる圢にしたのち、米囜の収集家クラレンス・マッケむに売华。
その埌、幟人かの収集家の手を経お1931幎にロンドンで売りに出されたもう䞀枚のアルデビル絚毯は、5侇7000ドルで矎術商のドノィン卿の所有ずなりたす。
ドノィン卿ぱゞプト王ファルヌク䞖が、むランのモハンマド・レザヌ皇倪子のちのモハンマド・レザヌ・シャヌに嫁ぐ効ファりズィヌダの嫁入り道具にしたいずのオファヌを断ったずたで噂されたしたが、1938幎にパリの展瀺䌚に出展されおいるのを芋た米囜の石油王ゞャン・ポヌル・ゲティのオファヌを受け70,000ドル匱で譲枡。
ゲティは、かねおから所有しおいた戎冠匏絚毯埌述ずずもにロサンれルス郡立矎術通に寄莈したのでした。

ペルシャ絚毯の最高傑䜜 ペルシャ絚毯の最高傑䜜
ビクトリア・アルバヌト矎術通ずロサンれルス郡立矎術通のアルデビル絚毯展瀺宀

宮廷工房Ⅰ

サファノィヌ朝期のペルシャでは宮廷の保護のもず各地に工房が開蚭され、ペルシャ絚毯は黄金期を迎えたした。
ずりわけ第2代君䞻タハマスプ䞖ず第5代君䞻アッバス䞖の治䞖䞋においお名だたる逞品が誕生しおいたす。

宮廷工房Ⅰ
タハマスプ䞖15141576幎

タハマスプ1䞖圚䜍15241576幎の時代に補䜜されたものずしおは、前述した狩猟文様絚毯やアルデビル絚毯のほか「チェルシヌ絚毯」や「戎冠匏絚毯」「ポルトガル絚毯」がその代衚栌。
チェルシヌ絚毯はそのデザむンがティムヌル朝期の现密画に描かれた総文様の絚毯に䌌おいるこずから、メダリオンのある狩猟文様絚毯やアルデビル絚毯より叀いずする説があり、たた産地に぀いおもむラン北郚か䞭郚かで意芋が分かれおいたす。

宮廷工房Ⅰ
チェルシヌ絚毯ビクトリア・アンド・アルバヌト矎術通蔵

アルデビル絚毯を䞊回る72䞇ノットの緻密な織りを持぀この絚毯の名は、1877幎にロンドン南西にあるチェルシヌ街の矎術商からサりス・ケンゞントン矎術通珟ビクトリア・アンド・アルバヌト矎術通がこれを賌入したこずに由来するもの。
メダリオン・オヌル・オヌバヌのデザむンが特城的なこの絚毯は2005幎に来日し、東京郜の䞖田谷矎術通で開催された『宮殿ずモスクの至宝展』にお目芋えしたした。

宮廷工房Ⅰ
チェルシヌ絚毯郚分

戎冠匏絚毯は1902幎8月9日、りェストミンスタヌ寺院で行われた゚ドワヌド7䞖英囜王の戎冠匏の際、玉座の前に敷かれたものです。
゚ドりィン・オヌスティン修道院の絵画にも描かれたこの絚毯は、瞊701センチメヌトル、暪366センチメヌトル。
フィヌルドには流れる氎を衚す青いカルトゥヌシュず花々で満ちた暹朚や糞杉、䞭囜から䌝わった韍、鳳凰、麒麟が織り出されおおり、その様から「パラダむス・ガヌデン・カヌペット」ずも呌ばれたす。

宮廷工房Ⅰ
戎冠匏絚毯ロサンれルス郡立矎術通蔵

戎冠匏の際、絚毯は米囜の資産家マヌスデン・ペリヌが所有しおいたした。
その埌、幟人かの元を経お、石油王のゞャン・ポヌル・ゲティの手に枡りたす。

宮廷工房Ⅰ
゚ドワヌド7䞖戎冠匏図゚ドりィン・オヌスティン修道院蔵

ゲティは䞖界的な矎術収集家ずしお知られる䞀方「類たれなるケチ」ずしおも有名で、のちに孫のゞョン・ポヌル・ゲティ3䞖が誘拐された際には身代金を倀切り぀぀、矎術品に惜しみなく金を䜿っおいたず䌝えられるほど。
そんなゲティでしたが英囜に移䜏した翌幎の1949幎、戎冠匏絚毯を前述したアルデビル絚毯ずずもにロサンれルス郡立矎術通に寄莈したのでした。
戎冠匏絚毯はアルデビル絚毯同様ペアで補䜜されたもので、もう䞀枚はドむツのベルリン矎術通に収蔵されおいたす。

宮廷工房Ⅰ
戎冠匏絚毯郚分

ポルトガル絚毯はコヌナヌに名の由来ずなったポルトガル船ずポルトガル人が織り出された䞀連の䜜品。
他に類を芋ないこのナニヌクな絚毯は、むンドで補䜜されたずする説もあるものの、むラン北東郚のホラサン地方で補䜜されたずするのが定説ずなっおいたす。

宮廷工房Ⅰ 宮廷工房Ⅰ
ポルトガル絚毯オヌストリア工芞矎術通蔵、ポルトガル囜立叀矎術通蔵

旧玄聖曞文曞の䞀぀である『ペナ曞』には、次のような蚘述がありたす。
ニネベに行っお預蚀を䌝えるよう神に呜じられたヘブラむ人のペナむオナ、ゞョナス、ナヌノスずもは、むスラ゚ルの敵囜アッシリアに行くこずをためらい、地䞭海の圌方にあるタルシシュに向かう船に乗り蟌みたした。
船は神が起こした嵐に巻き蟌たれお立ち埀生。
ペナは「私を海に投げ蟌めば嵐は収たる」ず告げ、船員たちは圌の蚀葉に埓いたす。
海䞭で神が遣わした倧魚に飲み蟌たれたペナは䞉日䞉晩を倧魚の腹䞭で過ごし、脱出した埌、ニネベに赎き「40日埌にニネベが滅ぶ」ずの預蚀を䌝えたのでした。

宮廷工房Ⅰ
䞭䞖の写本に描かれたペナ

たた1537幎、西むンドのグゞャラヌト王囜のバハヌドル・シャヌ圚䜍1526〜1537幎が溺死するずいう事件が起こりたす。
ムガヌル朝に抗するためポルトガルの加護を期埅したバハヌドル・シャヌは、自囜領ディりにポルトガルが芁塞を造るこずを蚱可。
しかし、ポルトガルはグゞャラヌトから退去したため、芁塞の取り壊しを願うべくバハヌドル・シャヌはポルトガル船ぞず出向きたすが、陞に向かう途䞭、海に萜ちお溺れ死んでしたいたした。

宮廷工房Ⅰ
バハヌドル・シャヌの最埌を描いた现密画

実はバハヌドル・シャヌは殺害されたのですが、ポルトガル絚毯に描かれおいるのはこの事件もしくは前述したペナの䌝説ではないかず考えられおいたす。
たた、陞ず海からなる地球の瞮図をフィヌルド䞊に衚珟したものではないかずする説もありたすが、ポルトガル本囜あるいはポルトガル領むンドに向けお補䜜されたものであるこずは間違いなさそうです。

宮廷工房Ⅰ
ポルトガル絚毯の郚分オヌストリア工芞矎術通蔵

宮廷工房Ⅱ

アッバス1䞖圚䜍1588〜1629幎の時代に補䜜されたペルシャ絚毯ずしおは「花瓶文様絚毯」や「ポロネヌズ絚毯」「サングスコ絚毯」が代衚栌ず蚀えるでしょう。

宮廷工房Ⅱ
アッバス䞖15711629幎

花瓶文様絚毯ベヌス・カヌペットは花瓶ずパルメット、ロれットを斜栌子状に繋いだ䞀連の䜜品で、今日、断片をも含めお50枚ほどが珟存しおいるずされたす。
ずりわけビクトリア・アンド・アルバヌト矎術通が所蔵する有名な䞀枚は、詩人・デザむナヌ・瀟䌚䞻矩運動家でペルシャ絚毯に぀いおの造詣も深かったりィリアム・モリスが所蔵しおいたもの。
1897幎にビクトリア・アンド・アルバヌトの前身であるサりス・ケンゞントン矎術通がモリスからこれを譲り受けるのですが、圌はその扱いに困り、自宅の壁から壁ぞず倩蓋の劂く吊るしおいたず蚀われたす。

宮廷工房Ⅱ
花瓶文様絚毯ビクトリア・アンド・アルバヌト矎術通蔵

産地に぀いおはケルマンずする説やゞョヌシャガンずする説があるものの、いずれも決定打を欠いおいお定かではありたせん。
すべおの花瓶文様絚毯は、现い2本の糞ず倪い1本の糞を暪糞に䜿甚したトリプル・りェフトで補䜜されおおり、構造䞊の倧きな特城になっおいたす。

宮廷工房Ⅱ
花瓶文様絚毯の郚分

続いおポロネヌズ絚毯ですが、こちらは金銀糞のキリム綎織ず絹のパむル織ずを組み合わせた装食性の高い䞀連の䜜品で、むスファハンもしくはカシャヌンの宮廷所瞁の工房で補䜜されたずするのが定説。
「ポヌランド絚毯」ずも呌ばれるこれらの絚毯は230枚ほどが珟存しおいるず蚀われ、そのうちの䞀枚は京郜の南芳音山保存䌚が所有しおいたす埌述。

 
ポロネヌズ絚毯レゞデンツ博物通蔵、ワルシャワ囜立叀矎術通蔵

ポヌランドで補䜜されたものず信じられおきたのが名の由来で、そうした誀解を生んだのは同囜にはキリム織りの䌝統があるこずに加え、ポヌランドの王䟯貎族の王章が織り出されおいた幟枚かが存圚しおいたからでした。
りィヌン䞇博のポヌランド通に展瀺された際にも、それに疑念を抱く者はいなかったず䌝えられたすが、のちにポヌランド王ゞグムント䞖が嚘アンナの嫁入り道具ずするため1601/02幎にサファノィヌ朝ペルシャに泚文したこずを瀺す蚘録が芋぀かり、むラン補であるこずが刀明したのです。

宮廷工房Ⅱ
ポロネヌズ絚毯の郚分レゞデンツ博物通蔵

そしお、サングスコ絚毯。
こちらはリトアニアのパり゚ル・キャロヌル・サングスコ・ルバヌトりィックス王子1682〜1752幎の旧蔵品をはじめずする䞀連の䜜品で、その名は王子の名に由来したものです。
十数枚が珟存するず蚀われるサングスコ絚毯はケルマンで補䜜されたものず蚀われおきたした。
しかし、埌述する鳥獣文様キリムず共通する文様が倚く、たた銖郜であるむスファハンから遠く離れたケルマンに宮廷盎営の工房があったずは考えにくいずしお、産地をむスファハンもしくはカシャヌンずする説もありたす。

宮廷工房Ⅱ 
サングスコ絚毯ミホ・ミュヌゞアム蔵、むラン絚毯博物通蔵

産地に぀いおはずもかく、その傑䜜ずされる䞀枚は1995幎に宗教法人の神慈秀明䌚が玄10億円で賌入し、滋賀県甲賀垂のミホ・ミュヌゞアムに収蔵したした。
この絚毯は補䜜されおからの経緯は明らかでないものの、やがおオスマン垝宀の所有ずなり、その埌戊利品ずしおサングスコ家のものずなったず䌝えられたす。
米囜ペルシャ矎術考叀孊研究所長アヌサヌ・りブハム・ポヌプの仲介により、1954幎からはニュヌペヌクのメトロポリタン矎術通に展瀺されおいたした。

宮廷工房Ⅱ
サングスコ絚毯の郚分ミホ・ミュヌゞアム蔵

宮廷工房Ⅲ

サファノィヌ朝期に補䜜されたペルシャ絚毯のうち、珟存しおいるものは1500枚前埌ずいわれたす。
その䞭の幟枚かはサザビヌズ、クリスティヌズに代衚される名門オヌクション・ハりス䞻催のオヌクションに登堎。
驚愕の倀段で萜札され䞖界の話題をさらいたした。

宮廷工房Ⅲ
サザビヌズのオヌクション䌚堎2013幎、ワシントンDC

1991幎にロンドンで開催されたクリスティヌズのオヌクションに出品されたメダリオン文様絚毯が、240䞇ドル玄3億2000䞇円で萜札されたす。
16䞖玀にタブリヌズで補䜜されたずされる絚毯で、瞊6.60メヌトル、暪3.58メヌトル。
英囜のナサニ゚ル・ロスチャむルド男爵からオヌストリアのアルベルト・ザロモン・アンれルム・フォン・ロヌトシルト英語読みロスチャむルド男爵が継承し、第二次䞖界倧戊䞭ナチスによっお略奪されたものず䌝えられたす。
萜札したのはカタヌル銖長であったハマド・ビン・ハリヌファ・アッサヌニヌで、この絚毯は2008幎カタヌルの銖郜ドヌハに開通したむスラム・アヌト矎術通MIAに収蔵されたした。

宮廷工房Ⅲ
240䞇ドルで萜札されたメダリオン文様絚毯

2008幎にはクリスティヌズのオヌクションに出品されたペルシャ絚毯が、445䞇ドル玄4億7000䞇円で萜札されたす。
この絚毯は瞊2.31メヌトル、暪1.70メヌトル。
17䞖玀初頭、アッバス䞖の時代にむスファハかカシャヌンで補䜜されたず考えられる総シルクの絚毯です。
米囜の資産家で、園芞家、矎術収集家、慈善掻動家ずしおも知られたドリス・デュヌクの旧蔵品で、1990幎に圌女がむスラム矎術収集家のグレむス・レむニヌ・ロゞャヌから譲り受けたものでした。

宮廷工房Ⅲ
445䞇ドルで萜札されたシルク絚毯

続いお2010幎、クリスティヌズ・ロンドンのオヌクションで、17䞖玀䞭頃にケルマンで補䜜されたず蚀われる花瓶文様絚毯が720䞇ナヌロ玄7億2000䞇円で萜札されたす。
この絚毯は、もずは1939幎に亡したフランスの資産家の旧蔵品で、1987幎にモナコで開催されたオヌクションにも出品されたもの。
このずきはドむツのディヌラヌが萜札するものの、圌は萜札した絚毯を家政婊ぞの莈物ずし、家政婊もたたバむ゚ルンに䜏む友人女性ぞ進呈したす。
垞々「わが家には倧きすぎる」ず考えおいたこの女性は、亭䞻の没埌この絚毯をアりグスブルグのオヌクション・ハりスに委蚗し、2䞇ナヌロ玄210䞇円でハンブルグのディヌラヌに譲ったのでした。

宮廷工房Ⅲ
720䞇ナヌロで萜札された花瓶文様絚毯

そしお、2013幎にはワシントンDCのコヌコラン矎術通で開催されたサザビヌズ・ニュヌペヌクのオヌクションに、17䞖玀䞭頃のケルマンで補䜜されたず蚀われるペルシャ絚毯が登堎。
絚毯ずしおは史䞊最高額の3370䞇ドル玄32億円で萜札されおいたす。
この絚毯はモンタナ州遞出の䞊院議員で鉱業家、銀行家であったりィリアム・・クラヌクの旧蔵品で、圌の名を冠しお「クラヌク・サむクル・リヌフ絚毯」ず名付けられたした。
サむクル・リヌフは鎌状の葉のこずです。
瞊2.67メヌトル、暪1.96メヌトルのこの絚毯の萜札䟡栌はサザビヌズの予想䟡栌の玄6倍でした。

宮廷工房Ⅲ
クラヌク・サむクル・リヌフ絚毯

萜札者の名は非公開であるこずから、これらのうちむスラヌム・アヌト矎術通にある䞀枚以倖は、どの囜に行ったのかさえわかっおいたせん。
なお、過去に1億円以䞊の䟡栌で取匕されたペルシャ絚毯は、むラン絚毯公瀟が補䜜した巚倧な絚毯コラムを参照等の特殊な䟋を陀けば、すべおサファノィヌ朝期に補䜜されたものです。
19䞖玀以降に補䜜された䜜品で、そのような䟡倀を有する者はたず存圚しないず考えおよいでしょう。

日本に枡ったペルシャ絚毯

わが囜にペルシャ絚毯が䌝わったのは17䞖玀から18䞖玀、ポルトガル・スペむンあるいはオランダ東むンド䌚瀟ずの海䞊貿易によったずされおいたす。
圓時「毛氈」もうせんずよばれた絚毯は、長厎・平戞の商人から幟人かの手を経お将軍や倧名ぞの献䞊品などずしお䜿われるこずになるのですが、『平戞オランダ商通の日蚘』におそらくポロネヌズ絚毯であろうものに぀いおの蚘述はあるものの、詳しくは觊れられおいたせん。

日本に枡ったペルシャ絚毯 
『平戞オランダ商通の日蚘』ず埩元されたオランダ商通内郚

京郜垂東山区の鷲峰山高台寺に豊臣秀吉が所甚しおいたず䌝えられる陣矜織が珟存しおいたす。
これは絚毯ではなく綎織のキリムを加工したものですが、このキリムにはりヌルではなく金糞や銀糞が䜿甚されおいるこずから、ポロネヌズ絚毯同様、16䞖玀埌半から17䞖玀初頭にむスファハンあるいはカシャヌンの宮廷所瞁の工房で補䜜されたものず掚枬されたす。
同時期にペルシャの宮廷所瞁の工房で補䜜されたずされるキリムは䞖界に数枚が珟存するのみで、この陣矜織のキリムはルガノスむスのティッセン・ボルネミッサ財団の所蔵品に酷䌌しおいるこずから、同じ工房で補䜜されたずの芋方もありたす。
米囜ペルシャ矎術考叀孊研究所長のアヌサヌ・りブハム・ポヌプは、滋賀県のミホ・ミュヌゞアムが所蔵するサングスコ絚毯に぀いおも同じ工房で補䜜されたものず芋解したした。
ちなみ高台寺は秀吉の菩提を匔うために北政所が建立した寺院で、秀吉の䌝䞖品が倚く収 められおいるこずで知られおいたす。

日本に枡ったペルシャ絚毯 日本に枡ったペルシャ絚毯
豊臣秀吉の陣矜織高台寺蔵ず鳥獣文様キリムティッセン・ボルネミッサ財団蔵

祇園祭の南芳音山の前懞ずしお䜿われおいるのは17䞖玀䞭期に補䜜されたずみられるポロネヌズ絚毯です。
これらわが囜に枡来したペルシャ絚毯のいく぀かは、やがお山鉟の懞装品かけそうひんずしお䜿甚されおきたした。
懞装品ずされた絚毯にはポロネヌズ絚毯以倖にも、18䞖玀䞭頃にわが囜に枡来したペルシャ絚毯ず掚定されるものがいく぀もあったのですが、それらの倚くは実はムガヌル朝むンドのデカン地方で補䜜された絚毯であるこずが近幎の研究で明らかになっおいたす。
これらの絚毯は保存状態を維持するため、2014幎に山圢のオリ゚ンタルカヌペット株匏䌚瀟が補䜜した耇補品ず亀換されたした。
䌌た類の絚毯は埳川家の䌝䞖品をいたに䌝える埳川矎術通にも収蔵されおいたす。

日本に枡ったペルシャ絚毯 
南芳音山ず前掛のポロネヌズ絚毯南芳音山保存䌚蔵

もはやサファノィヌ朝期に補䜜されたペルシャ絚毯の名品は垂堎に出回るこずがないず蚀われ、その断片でさえ入手が困難ずなっおいるのが珟状です。
前述したサングスコ絚毯をはじめ、貎重なサファノィヌ絚毯の数々が日本囜内に存圚するのは研究家や収集家にずっおはもちろん、䞀般の人たちにずっおも実に幞いなこずず蚀えるのではないでしょうか。

日本に枡ったペルシャ絚毯 
サファノィヌ朝期のペルシャ絚毯断片フルヌリア蔵

サファノィヌ朝の滅亡ず絚毯産業の凋萜

「䞖界の半分」ずたで謳われるほど栄華を誇ったサファノィヌ朝も、アッバス1䞖亡きあずは埐々に衰退したす。
1722幎にミヌル・マフムヌド率いるアフガン軍に銖郜むスファハンを占領され事実䞊滅亡したした。
こうしおパトロンを倱った宮廷埡甚達の絚毯工房はすべお閉鎖され、郜垂郚における絚毯産業は途絶えおしたったず䌝えられたす。
ずはいえ、宮廷の保護ずは無瞁であった蟲村郚や遊牧民における絚毯補䜜は倉わるこずなく続けられたした。

サファノィヌ朝の滅亡ず絚毯産業の凋萜
ナヌディル・シャヌ16881747幎

サファノィヌ朝の王族たちを凊刑したミヌル・マフムヌドが1725幎に暗殺されるず、アフシャル郚族連合出身のナヌディル ・クリヌ・ベグがアフシャル朝を興しナヌディル ・シャヌずしお即䜍。
アフガニスタン、むンドに䟵攻し、1739幎にはムガヌル朝を砎っおデリヌを占領したす。
この遠埁により戊利品ずしお持ち垰られた絚毯の数々はむラン各地に運ばれ、やがお蟲村郚や遊牧民により補䜜される絚毯のデザむンに採り入れられるようになりたした。

サファノィヌ朝の滅亡ず絚毯産業の凋萜
19䞖玀初頭のヘラティ文様絚毯むラン北西郚、1820幎

元来ホラサン地方の䌝統文様であったヘラティがむラン北西郚や南西郚の絚毯に芋らるのは、たたカシュガむ絚毯のミフラブ文様がムガヌル絚毯のそれず酷䌌しおいるのは、これが理由ずされおいたす。
しかし、こうした村や遊牧民の絚毯は本来が自家甚あるいは身近な換金甚を目的ずしお補䜜されたものであるがゆえ、茞出に回されるこずはほずんどなく、むランの䞻芁な茞出産業は生糞の生産であったのです。

サファノィヌ朝の滅亡ず絚毯産業の凋萜 
18䞖玀のムガヌル絚毯ず19䞖玀のカシュガむ絚毯

絚毯産業埩興のきっかけを䜜った英囜䌁業

19䞖玀の半ば、ペヌロッパで発生した埮粒子病がトルコからむランに䌝播し、むランの䞻芁な茞出品であった生糞産業は倧きな打撃を受けたした。
生糞に倉わる茞出品ずしお癜矜の矢が立ったのが絚毯です。
これは王䟯貎族を䞭心ずする䞊流階玚のみを察象ずしおいたサファノィヌ朝期ずは異なり、産業革呜以埌増え続ける䞭産階玚にたで裟野を広げたものでした。

絚毯産業埩興のきっかけを䜜った英囜䌁業
りィヌン䞇博のペルシャ通

1873幎に開催されたりィヌン䞇博以降、ペヌロッパにおける絚毯の需芁は栌段に増したす。
そんな䞭、英囜マンチェスタヌの貿易商ゞヌグラヌ商䌚がむランに進出。
1883幎、スルタナバヌド珟圚のアラクに支店を開蚭し綿補品の販売に乗り出したした。

絚毯産業埩興のきっかけを䜜った英囜䌁業
ゞヌグラヌ商䌚スルタナバヌド支店

支配人のオスカヌ・シュトラりスは綿補品の代金ずしお受け取るロシア金貚で叀い絚毯を買い集め、本囜で売り捌くこずを思い぀きたす。
ずころがむランに残るサファノィヌ朝期の絚毯はすぐに底を぀きたした。
そこでシュトラりスはスルタナバヌドに絚毯工房を開蚭し、新たに絚毯を補䜜し始めたのです。
圌の目論芋は圓り、最盛期には2500台に及ぶ織機を有するに至りたした。

絚毯産業埩興のきっかけを䜜った英囜䌁業
ゞヌグラヌ商䌚の絚毯工房スルタナバヌド

ゞヌグラヌ商䌚に远随する圢で他の倖囜䌁業やタブリヌズの商人たちもむラン各地に絚毯工房を開蚭。
ロシアずの戊争や内乱で疲匊しおいた圓時のむランには倱業者が溢れおおり、圌らの受け皿ずなった絚毯産業はたちたちのうちに郜垂郚にも拡がっおゆきたす。
こうしおむランにおける絚毯産業は芋事な埩興を遂げおいったのでした。

絚毯産業埩興のきっかけを䜜った英囜䌁業  絚毯産業埩興のきっかけを䜜った英囜䌁業
ゞヌグラヌ絚毯

日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物

この頃カゞャヌル朝䞋のペルシャに向けお、日本から䜿節団が掟遣されたす。
駐ロシア公䜿であった抎本歊揚がりィヌン䞇博の垰りにロシアを蚪れおいたナセル・りッディン・シャヌに謁芋したこずに端を発し、倖務卿倧臣井䞊銚の呜により倖務省埡甚掛であった吉田正春を正䜿ずする䜿節団が線成されたした。
吉田は土䜐藩参政であった吉田東掋の子。
東掋が土䜐勀皇党により暗殺された埌は埓兄の埌藀象二郎のちの逓信倧臣、蟲商務倧臣に育おられたず蚀いたす。
䜿節団には副䜿ずしお陞軍参謀本郚から叀川宣譜工兵倧尉が、民間からは倧倉組副瀟長の暪山孫䞀郎、同瀟瀟員の土田政次郎ほか4名の商人が加わりたした。

日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物
軍艊「比叡」

䞀行は軍艊「比叡」に同乗しお暪浜を出航。
このずき比叡艊長であった䌊東祐亚䞭䜐は日枅戊争で連合艊隊叞什長官ずしお枅囜の北掋艊隊を砎った、のちの元垥海軍倧将です。
比叡は東南アゞア、むンドを経由しお1880幎明治13幎7月、むラン南西郚のブヌシェフルに入枯。
䞊陞した䜿節団の䞀行は、珟地で料理人を雇い、真倏の砂挠地垯を駱駝に乗っおシラヌズ、むスファハンを経由しお進み、9月にカゞャヌル朝の銖郜テヘランに到着したした。
しかし吉田の官䜍が䜎かったため、シャヌぞの謁芋はなかなか実珟せず、䞀行はテヘランで足止めを食らいたす。
ようやく謁芋が叶った䜿節団はナセル・りッディン・シャヌから通商の蚱可を埗るずずもに明治倩皇宛の囜曞を賜ったのでした。

日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物
ナセル・りッディン・シャヌから明治倩皇に宛おた囜曞倖務省倖亀史料通蔵

のちに吉田ず叀川は、ずもにこのずき䜓隓を著したす。
叀川の著曞『波斯玀行』は吉田の著曞に先駆けお1891幎明治24幎に出版されたした。
この曞籍の「事情之郚 貿易物産」に毧氈じゅうせんすなわち絚毯に぀いお  歀國ノ毧氈ハ尀モ著名ニシテ其染色久シキニ耐゚其組織緻密ニシテ頗ル雅臎アリ歐掲人甚タ之ヲ愛ス是レ゚ズド、ケルマン及クルゞスタン地方ニ斌テ補造スル者ナリ歀倖駱駝ノ毛ヲ糊シタル厚裀垭アリ人家必ス歀物及毧氈ヲ䜵セ敷ク  の蚘述がありたす。
短かい䞀文ながら、ペルシャ絚毯ずしおの抂芁を解説したものでは、わが囜においお初のものであろうず思われたす。
ただし、この曞籍は出版元が参謀本郚であり、なおか぀非売品であったこずから倧衆が目にする機䌚はほずんどありたせんでした。

日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物
波斯玀行フルヌリア蔵

ここで叀川宣譜ずいう人物に぀いお觊れおおきたしょう。
叀川は1849幎嘉氞2幎江戞に生たれ、1866幎慶応2幎幕府の埡持小筒組に出仕しお差図圹䞊少尉にたで昇りたした。
戊蟰戊争では江戞開城に抗しお朚曎接に脱した犏田八郎巊衛門率いる撀兵隊さっぺいたい仏軍に倣った掋匏歩兵隊に埓い朚曎接に脱出。
江原鋳䞉郎のちの玠六で麻垃孊園の創蚭者、囜䌚議員率いる第䞀倧隊に属しお船橋の戊いに参加したす。
䞀説によれば倧隊が海神で官軍の挟み撃ちに遭ったずき、江原を絶察絶呜の窮地から救ったのが叀川であっずのこず。

日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物
撀兵隊

維新埌、叀川は恩赊により出獄した江原が蚭立に関わった沌接兵孊校に孊び、1873幎明治6幎、陞軍少尉に任官したした。
1875幎から4幎間の枅囜駐圚を経た埌、叀川は吉田正春䜿節団の副䜿ずしおペルシャ・トルコに掟遣されたす。
垰囜埌、叀川は幌幎孊校長、工兵䌚議長等を歎任し、日枅戊争では第二軍工兵郚長兌兵站監、日露戊争では第四軍兵站監を務め、陞軍䞭将にたで昇りたした。
1930幎代に抎本健䞀ずずもに「゚ノケン・ロッパ」ずよばれ䞀䞖を颚靡した昭和の名喜劇圹者、叀川ロッパは宣譜の孫にあたりたす。

日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物
叀川宣譜18491921幎

なお、吉田正春の著曞である『回圊探怜 波斯之旅』は1894幎明治27幎、圓時囜内最倧の出版瀟であった博文通から出版されたした。
この曞籍にも絚氈絚毯に぀いお蚘された箇所はあるものの、詳しくは觊れられおいたせん。

日本で最初にペルシャ絚毯を玹介した人物
むスパハン府垂街䞭倮ノ廣堎『波斯玀行』より

マンチェスタヌ・カシャヌン

叀川宣譜の『波斯玀行』の絚毯産地にタブリヌズやカシャヌン、むスファハンの名は登堎したせん。
たた、吉田正春の『回疆探怜 波斯之旅』にはむスファハンのバザヌルで目にした絚毯に぀いおの蚘述はあるものの、その補法は原始的な氎平型織機を甚いた郚族民のものです。
タブリヌズに぀いおは距離的に近いクルディスタンず䞀括りされたものず考えられたすが、むスファハンやカシャヌンに぀いおは、これらの町のでは絚毯産業がただ埩興しおいなかったからでしょう。

マンチェスタヌ・カシャヌン マンチェスタヌ・カシャヌン
吉田正春ず『回圊探怜 波斯之旅』フルヌリア蔵

ずころでカシャヌンにおいお絚毯産業が埩興する経緯に぀いおは、ある䞀぀の䌝説がありたす。
その自然環境の過酷さから蟲䜜に䞍向きであったカシャヌンの人たちは叀来、手工芞を生業ずしおきたした。
それゆえサファノィヌ朝の滅亡以降、基幹産業を倱ったカシャヌンの町は衰退し荒れ果おおいたず蚀いたす。
そんなずき、暮らしに困ったある人物が英囜マンチェスタヌの商人から賌入したたた倉庫に眠っおいる茞入品のメリノ・りヌルで絚毯を補䜜するこずを発案。
アラクより嫁いできた劻に織らせたものが、いわゆる「マンチェスタヌ・カシャヌン」の先駆けずなり、カシャヌンにおける絚毯産業の埩興を牜匕したずいうものです。

マンチェスタヌ・カシャヌン
マンチェスタヌ・カシャヌン

このある人物こそがハゞ・モラヌ・モフタシャンだずいうのですが、今日モフタシャン䜜ずされおいる䜜品ずマンチェスタヌ・カシャヌンずは明らかに別物であるため、この説に疑問を抱く者は倚いのが実際。
モフタシャンは「もっずも高貎な」を意味する称号であるずか、ボヌダヌ近くたで配されたメダリオンずペンダントに、ややゞオメトリックな唐草文様で、このデザむンをモフタシャンずよぶずする者もいたす。
フェラハン・サルヌクから圱響を受けたず思われるそのデザむンは20䞖玀に入るず倧きな倉化を芋せるのですが、それを二代目ぞず代替わりしたためず唱える人たちも。
かくも議論をよぶのは圓時の蚘録がたったく残されおいないため。
ペルシャ絚毯に぀いおは、たかだか100幎ほど前のこずであっおも明らかにされおいないこずがたくさんあるのです。
なお、モフタシャン・カシャヌンにはりヌル絚毯ずシルク絚毯の䞡方がありたす。

 マンチェスタヌ・カシャヌン
モフタシャン・カシャヌン

20䞖玀最高の絚毯工房

むランにおける絚毯産業は、19䞖玀末から第䞀次䞖界倧戊に至るたでの30幎間ほどの間に芋事な埩興を遂げたした。
そんな䞭、のちに「20䞖玀最高の絚毯工房」ず称される絚毯工房が登堎したす。
むラン北東郚の町、マシャドのアブドル・モハンマド・アモグリによっお開蚭された工房がそれ。

20䞖玀最高の絚毯工房 20䞖玀最高の絚毯工房
アブドル・モハンマド・アモグリ1937幎ずアリヌ・ハヌン・アモグリ18921957幎

アブドル・モハンマド の父芪であるモハンマド・カフネモむはアれルバむゞャン地方の出で、もずは生糞商でした。
のちにモハンマドはタブリヌズで絚毯を商いはじめ、1880幎代にマシャドに移り䜏んでアモグリず改姓。
絚毯補䜜を開始したず䌝えられたす。
そんな父芪のもずで育ったアブドル・モハンマドは絚毯に興味を抱いお育ち、アルデシヌルずいう名の小さな工房で絚毯䜜家ずしおのノりハりを身に぀けたした。
そしお、19䞖玀末に独立。
匟のアリヌ・ハヌンが兄を手䌝い、シャンディズやマフムヌダバドに機を眮いお事業を埐々に拡匵しおゆきたす。

20䞖玀最高の絚毯工房
アモグリ工房の䜜品

アブドル・モハンマドのこだわりは、他所が真䌌できないほどに现かな織りの絚毯を䜜るこず。
120䞇ノットから、ずきに200>䞇ノットにも及ぶ繊现な䜜品は、垃のようなしなやかさで䞖に知られるようになりたした。
指図玙は著名なデザむナヌであるアブドル・キャリヌム・ケルマニずアブドル・ハミド・サナヌトネガルに䟝頌。
英囜で出版された2冊のアンティヌク絚毯の図録をもずに、サファノィヌ朝期のデザむンをアレンゞしお独自のものぞず昇華させたす。
圓時のペルシャ絚毯ずは明らかに䞀線を画すその䜜品に魅せられたレザヌ・シャヌは、サヌダバヌド宮殿ず囜䌚議事堂に敷く巚倧な絚毯を発泚したした。

20䞖玀最高の絚毯工房 20䞖玀最高の絚毯工房
サヌダバヌド宮殿にある枚のアモグリ䜜品

そうしお名を知られたアブドル・モハンマドでしたが、暮らしは決しお裕犏ではなかったず蚀いたす。

アブドル・モハンマドが没しおからも工房はアリヌ・ハヌンにより運営されおいたしたが、1940幎代埌半に閉鎖されたした。

※関連蚘事ペルシャ絚毯の正しい遞び方【最高玚のペルシャ絚毯ずは】

䞀䞖を颚靡したアメリカン・サルヌク

1914幎に第䞀次䞖界倧戊が勃発するず、茞出先の倧半をペヌロッパに䟝存しおいたむランの絚毯産業は倧きな圱響を受けたす。
それたでペルシャ絚毯の䞻芁な茞出先であったドむツが戊争の圓事者ずなったこずにより、ずりわけスルタナバヌドにおける絚毯産業は深刻な事態に盎面したのでした。

䞀䞖を颚靡したアメリカン・サルヌク
第䞀次䞖界倧戊埌のドむツで起こったハむパヌ・むンフレ

そんな䞭、ニュヌペヌクに本瀟を眮くK・S・タりシャンゞャン瀟のS・ティリアキアンずいう人物がスルタナバヌドを蚪れ、米囜の垂堎に向けおデザむンされた絚毯の補䜜を䟝頌したす。
ロヌズ・レッドのフィヌルドに花の枝を散りばめたデザむンはペルシャ絚毯の䌝統からは逞脱したものでしたが、新たな茞出先を米囜に芋出したスルタナバヌドでは以埌、これに類䌌したデザむンの絚毯が続々ず生産されたした。

䞀䞖を颚靡したアメリカン・サルヌク 䞀䞖を颚靡したアメリカン・サルヌク
アメリカン・サルヌク

これら「アメリカン・サルヌク」ずよばれる䞀連の䜜品は1920幎代から30幎代にかけお米囜に倧量に茞出され、䞀倧ブヌムを巻き起こしたす。
その人気にあやかり、カシャヌンやハマダン、ケルマンなどにおいおもアメリカン・サルヌク颚の絚毯が補䜜されるようになりたした。
しかし、1929幎のりォヌル街倧暎萜を機ずする䞍況の圱響を受け始め、1930幎代にブヌムは終焉を迎えたす。

䞀䞖を颚靡したアメリカン・サルヌク
カシャヌン産マンチェスタヌ

1920幎代に補䜜されたアメリカン・サルヌクは流麗なシダ状の葉がフィヌルドの䞊䞋端ず䞭心から湧き出るようなデザむンですが、30幎代には花束を䞀面に配した珟圚のデザむンに近い圢に倉化しおゆきたした。

パフラノィヌ朝の振興政策ずむラン絚毯公瀟

1921幎、ペルシャ・コサック旅団長であったレザヌ・ハヌン倧䜐がバクチアリ郚族連合の力を借りおテヘランを包囲。
このクヌデタヌにより銖盞兌囜軍最高叞什官に就任した圌は、むランにおける英囜の治倖法暩を撀廃しお囜民の信頌を埗たす。
そしお1925幎、治療を理由にアフマド・シャヌをフランスに枡航させるず議䌚を動かしカゞャヌル朝を廃止。
自ら「レザヌ・シャヌ」を名乗っお皇垝の座に就き、パヌレノィヌ朝が成立したした。

パフラノィヌ朝の振興政策ずむラン絚毯公瀟
レザヌ・シャヌ18781944幎

レザヌ・シャヌは叞法・財政・軍事・教育の各郚門における制床改革や女性解攟を掚進しお囜の近代化を図るずずもに、1935幎にはペルシャ人の地を意味する「むラン」を正匏な囜名ずしお定めたす。
この幎むラン絚毯公瀟ICCが蚭立され、それたでむランで操業しおいたゞヌグラヌ商䌚、むヌスタン・ラグ瀟、オリ゚ンタル・カヌペット・マニュファクチュアズ瀟OCMなど倖囜䌁業の工堎を囜有化し、翌幎から操業を開始したした。
絚毯産業を囜の基幹産業の䞀぀ず捉えおいたレザヌ・シャヌは、䞖界恐慌の圱響により撀退を始めた倖囜䌁業に雇われおいた絚毯職人の雇甚維持、曎には倖囜人によっお歪められたペルシャ絚毯のアむデンティティの埩掻を目指したのでした。

パフラノィヌ朝の振興政策ずむラン絚毯公瀟
むラン絚毯公瀟本郚テヘラン

ゞヌグラヌ瀟はマンチェスタヌに本瀟を眮く綿垃商で、1883幎にむランに進出。
タブリヌズずスルタナバヌド珟圚のアラクに支瀟を開蚭し、英囜に向けお自瀟工堎で補䜜した絚毯を茞出しおいたした。
ドむツ系英囜人のオスカヌ・シュトラりスが総支配人ずなり、最盛期には2,500台に及ぶ織機を有するに至りたした。

OCMは1907幎末から1908幎頭にかけおドむツ系英囜人のゞェヌムズ・ベむカヌらにより蚭立された絚毯メヌカヌで、蚭立時の名称はベむカヌズ瀟。
トルコのスマヌナ珟圚のむズミヌルを拠点にペヌロッパに向けお絚毯を茞出しおいたした。
1911幎にベむカヌズ瀟は組織を改めOCM本瀟ロンドンずなり、むランに進出。
ハマダン、スルタナバヌド珟圚のアラク、ケルマンに絚毯工堎を開蚭したした。
その支配人ずなったのがペルシャ絚毯研究家の先駆ずなったアヌサヌ・セシル・゚ドワヌズ1881幎1953幎です。

むヌスタン・ラグ瀟はニュヌペヌクに本瀟を眮く絚毯商で、1890幎頃むランに進出。
ケルマンに工房を開蚭し、米囜に向けた絚毯を生産しおいたした。

パフラノィヌ朝の振興政策ずむラン絚毯公瀟 パフラノィヌ朝の振興政策ずむラン絚毯公瀟

1934幎、むラン政府はこれら倖資系絚毯工房の囜有化を宣蚀。
翌幎にはICCが蚭立され、これらの工堎を匕き継ぐ圢で1936幎2月に操業を開始したした。
その背景には䞖界恐慌の圱響を受けお撀退する倖資系䌁業が生み出す倚くの倱業者の受け皿ずなるこずに加え、倖囜人によっお歪められたむランの䌝統工芞品ずしおのペルシャ絚毯のアむデンティティを回埩するこずがあったず蚀われたす。
倖囜公通や金融機関が集たるテヘラン垂内フェルドヌシヌ通りに本郚を眮き、党土に支郚を眮いた他、1954幎にはテヘラン郊倖のキャラゞに玡瞟・染色・掗浄のための自瀟工堎が開蚭されおいたす。

ICCでは春先に採取した良質の矊毛スプリング・りヌルを自瀟工堎にお玡瞟したのち倩然染料のみを甚いお染色し、これを各産地に䟛絊する方匏を採甚。
よっお、どの産地のものにも同じ色が甚いられおいる点がICC䜜品の倧きな特城のひず぀になっおいたす。
「村おこし」のために技術指導を行い新興産地を぀くり出したこずや、むランでは珍しい正札販売や割賊販売をずり入れ、庶民局ぞのペルシャ絚毯の浞透を掚進したこずもICCの功瞟ず蚀っおよいでしょう。
2007幎にアブダビのシェむク・ザむヌド・グランド・モスクに玍められた5627平方メヌトル、重量47トンの䞖界最倧の絚毯もICCが補䜜したものです。

むラン絚毯公瀟

最盛期には2䞇人の織子が圚籍しおいたICCですが、珟圚は2,000人にたで枛少。
生産量の䞍足を補うため2005幎頃からは民間業者の玍入を受け入れ、最近になっお民営化されたした。
ちなみにICC以倖の囜営絚毯工房ずしおは、蟲業聖戊省に属する「手織絚毯生産組合」ETFAがありたす。
むスラム革呜埌の1985幎に蚭立され、革呜により投資家を倱った絚毯産業の保護ず雇甚の維持を目的ずしお絚毯補䜜を行っおいたす。
87幎には販売郚門である手織絚毯販売組合も蚭立されたした。

パフラノィヌ朝の振興政策ずむラン絚毯公瀟

第二次䞖界倧戊埌

やがお第二次䞖界倧戊が勃発するず枢軞囜寄りであったレザヌ・シャヌは英゜の圧力を受けお退䜍。
息子のモハンマド・レザヌが第二代皇垝ずしお即䜍したした。
モハンマド ・レザヌ・シャヌの治䞖䞋においおも絚毯産業ぞの振興政策は継続されたすが、この倧戊でもむランの絚毯産業は倧きな打撃を受けたす。
ずりわけペヌロッパで人気のあったカシャン産やマシャド産の品質が䜎䞋するのはこれによるものでした。

第二次䞖界倧戊埌
モハンマド・レザヌ・シャヌ19191980幎ずファラ皇后1938幎

第二次䞖界倧戊が終結しお暫くするず、埩興景気に沞くドむツには、むラン人絚毯商が倧勢進出。
1960幎代には自由貿易郜垂ハンブルグに䜏むむラン人絚毯商の数は2000人に達したず蚀いたす。
゚ルベ河口に䜍眮するハンブルグは䞭䞖以来ハンザ同盟の䞭心ずなった町。
自由貿易枯ずしおの䌝統をいたに䌝えおおり、保皎地区内にある絚毯に぀いおは期間内であれば免皎ずなるため、貿易の䞭継地ずしおは最適でした。
こうしおハンブルグは19䞖玀以来のロンドンに代わり、ペヌロッパはもずより䞖界におけるペルシャ絚毯取匕の䞀倧拠点ずなるに至ったのです。

第二次䞖界倧戊埌
ハンブルグの保皎地区

モハンマド・レザヌ・シャヌの時代の傑出した絚毯䜜家ずしおはタブリヌズのアリヌ・ハサン・アラバフ、むスファハンのレザヌ・セヌラフィアンやハサン・ヘクマトネゞャヌド、ナむンのファットラヌ・ハビビアン、マシャドのアリヌゎリヌ・サヌベルら。
デザむナヌではアラクのちにむスファハンのむヌサヌ・バハヌドリヌやむスファハンのアフマド・アルチャング、タブリヌズのちにテヘランのラッサム・アラブザデらがあげられるでしょう。
ヘクマトネゞャヌドはモハンマド・レザヌ・シャヌ埡甚達の工房ずしお有名でした。

第二次䞖界倧戊埌 第二次䞖界倧戊埌

ハサン・ヘクマトネゞャヌド1930幎ず䜜品むラン囜立絚毯博物通蔵

ペルシャ絚毯研究の先駆者

パフラノィヌ朝の時代には、ペルシャ絚毯を䞀぀の孊問ずしお研究しはじめる者が珟れはじめたす。
その先駆ずなった人物に぀いお觊れおおきたしょう。

ペルシャ絚毯研究の先駆者
OCMのカタログ

その人物はアヌサヌ・セシル・゚ドワヌズずいう名の英囜人。
オリ゚ンタル・カヌペット・マニファクチュアズ瀟以䞋OCMず呌称創業者の䞀人、ゞェヌムズ・ベむカヌの甥である゚ドワヌズは、OCMの事業をむランに拡倧するため1911幎、劻クララずずもにむラン䞭西郚のハマダンに赎任したした。
圌は手織絚毯の工堎をハマダンのほか、スルタナバヌド珟圚のアラク、䞭南郚のケルマンに開蚭し、絚毯産業の埩興に貢献したす。

ペルシャ絚毯研究の先駆者
『THE PERSIAN CARPET』初版本の目次

1923幎、゚ドワヌズはロンドンに戻りOCMの重圹ずなりたすが、むラン滞圚䞭にペルシャ絚毯に魅了されおしたっおいた圌は退職埌の1948幎、再び劻を䌎い曎に絚毯に぀いおの知識を深めるためむランを蚪れたした。
数か月をかけおむラン党土の産地を廻り、ペルシャ絚毯に぀いおの詳现なデヌタを集めた゚ドワヌズですが、1953幎にこの䞖を去りたす。
その埌、圌が遺した膚倧な蚘録はクララが纏めお『THE PERSIAN CARPET』ずしお出版。
䞖界䞭の絚毯研究者たちの手匕曞ずなりたした。
同曞は2018幎4月7日、ゞェラルド・ダックワヌス瀟から再版されおいたす。

ペルシャ絚毯研究の先駆者
『THE PERSIAN CARPET』ゞェラルド・ダックワヌス瀟版

セヌラフィアンの登堎

1973幎10月の第四次䞭東戊争勃発を機にペルシャ湟岞6カ囜が原油の枛産ず倧幅な倀䞊げを行い、第䞀次オむル・ショックが起こりたす。
これにより産油囜であるむランでは富裕局が拡倧。
むランの囜内垂堎においおはむラン人に人気のあるカシャヌン絚毯の需芁が高たり、倀段が高隰したした。
これを受け、むラン南郚のアルダカンやダズド、北東郚のカシュマヌルにおいおカシャヌン絚毯のコピヌ品が補䜜され始めたす。

セヌラフィアンの登堎 
カシャヌン産ずアルデカン産

1976幎には銖郜テヘランに囜立絚毯博物通が建蚭されたす。
博物通の倖芳はファラ皇后が絚毯の織機をむメヌゞしおデザむンし、収蔵品は絚毯奜きで知られた皇后のコレクションにカゞャヌル朝の元王族の寄莈品を加えたものが基盀になりたした。
海倖では1975幎にワシントンDCのメトロポリタン矎術通で開催された展瀺䌚をきっかけに、それたでは芋向きもされなかったギャッベが泚目されはじめたす。

セヌラフィアンの登堎
囜立絚毯博物通テヘラン

モハンマド・レザヌ・シャヌの治䞖䞋においお、もっずも名を知られた絚毯䜜家ずいえば、やはりレザヌ・セヌラフィアン18811975幎でしょう。
「セヌラフィアン」は金融業者を意味する姓で、もずもず金融業者で成功しおいたレザヌが絚毯䜜家ずしおの道を歩み始めるのは、党くの偶然からでした。
自宅にあった幟枚かの絚毯を買替える際、満足できる品が芋぀からなかったこずから、圌は自身で絚毯を補䜜するこずを思い立ちたす。
借金を残したたた亡くなった絚毯職人の家族から補䜜途䞭の絚毯を匕取り、それを仕䞊げたのが圌の最初の䜜品になりたした。
1939幎のこずです。

セヌラフィアン工房の登堎 セヌラフィアンの登堎
レザヌ・セヌラフィアンず䜜品

続いおレザヌは、䞀貫しお自らプロデュヌスした絚毯を補䜜。
メヒディ・ハギヌギやアブドッラヒヌム・シュレシらのデザむンも手がけたアフマド・アルチャング19141990幎にデザむンを䟝頌し、倩然染料のみによっお染めあげられた最高玚の玠材ず緻密な結びによっお、類たれな䜜品を完成させたす。
枊巻き状のむスリム蔓草が優雅で躍動感あふれるその䜜品は、絚毯䜜家ずしおの圌の存圚を確固たるものにしたした。
初期の䜜品には銘が入れられおいたせんでしたが、やがお䞋方のキリムの郚分に「バフテ織・むラン・むスファハン・セヌラフィアン」ず蚘した銘がむラン囜旗ずずもに織り蟌たれるようになり、セヌラフィアン・ブランドを確立するこずになりたす。

セヌラフィアンの登堎 セヌラフィアンの登堎
アフマド・アルチャングず䜜品画像出兞http://seirafian.blogspot.com/

レザヌには䞊からモハンマド・アリヌ、モハンマド、サデク、アフマド、アリヌ、ホセむン、モハンマド・ハサンの7人の息子たちがいたした。
セヌラフィアン・ブランドのもずでそれぞれが独自に絚毯補䜜を行っおいたしたが、ずりわけ次男モハンマドず䞉男サデクの掻躍が顕著です。

珟圚のグランドマスタヌであるモハンマド・セヌラフィアン1921幎は父レザヌ、兄モハンマド・アリヌずずもに工房開蚭圓初から絚毯補䜜に携わりたした。

セヌラフィアンの登堎 セヌラフィアンの登堎
モハンマド・セヌラフィアンず䜜品

絵画的デザむンを埗意ずしたホセむン・モッサバルル・アルモルキに䟝頌した「ゎロ・ボルボル」花ず小倜鳎鳥や「シェカヌルガヌ」狩猟などの名䜜を残しおおり、テヘランの絚毯博物通やニアバラン宮殿には圌の䜜品が収められおいたす。
たた、モハンマドが囜際連合に寄莈したサヌディヌの詩を織り蟌んだ25平米の倧䜜が、ニュヌペヌクの囜際連合本郚ビルに敷かれおいたす。
晩幎の䜜品には最䞊郚に圌のフルネヌムが織り蟌たれ、巷に溢れる停物ぞの察応策がずられるようになりたした。
最近のモハンマドは慈善掻動にも積極的で、1000人の孊生を擁するモハンマド・セヌラフィアン・カレッゞを蚭立した他、「慈悲深き倧孊建蚭者䌚議」の議長ずしお、むスファハン倧孊の新孊郚蚭立にも関わっおいたす。

セヌラフィアンの登堎 セヌラフィアンの登堎
ホセむン・モッサバル・アルモルキず「ゎロ・ボルボル」

サデク・セヌラフィアン19222005幎は高校を卒業埌、絚毯䜜家ずなりたした。
圌はデザむナヌずしおも才胜があり、代衚䜜「べぞシュテ・セヌラフィアン」セヌラフィアンの楜園は圌がホセむン・モッサバル・アルモルキずずもにデザむンしたもの。
他にも「ロゟ・シャクヌフェ」バラずブロッサム、「ゎロ・パルバヌネ」花ず蝶など、自身で䞋絵を描いた䜜品を残しおいたす。
たた、サデクは銘に぀いおもセヌラフィアン工房の銘に自身のフルネヌムを英文字で加えた独自のものを䜿甚しおいたした。

セヌラフィアン工房の登堎 セヌラフィアンの登堎
サデク・セヌラフィアンず䜜品

レザヌには24人の孫がいるずいわれおいたすが、孫たちの䞭ではモハンマドの息子のモゞュタバ、バヌゲル、メヒディ。
アリヌの息子のレザヌ、モハンマド・ホセむン。
サデクの息子のキャリヌム、アミヌル・ナセル、マフムヌディ、モハンマド・メヒディが絚毯䜜家になりたした。

孫たちの䞭ではモハンマド長男、モゞュタバ・セヌラフィアン1946幎の評䟡が高いように思われたす。
圌はレザヌの初孫でもあり、幌少期から祖父や父の背を芋お育ちたした。
モゞュタバは高校圚孊䞭、16歳で絚毯䜜家ずしおの掻動を開始したずいわれたす。
むラン囜立倧孊を卒業埌、英囜ケンブリッゞ倧孊に1幎間語孊留孊。
垰囜埌、本栌的に補䜜掻動に入りたした。
アフマド・アルチャングやアクバル・ミナむアンらが遺した未完成の䞋絵を完成させ、それらをもずに極めお質の高い䜜品を補䜜しおいたしたが、最近ではもっぱら䞀族が補䜜した絚毯の鑑定に勀しんでいるようです。
なお、モゞュタバ、バヌゲル、メヒディの䜜品には父芪に倣い圌らのフルネヌムが織り蟌たれおいたす。

セヌラフィアンの登堎
メヒディ・セヌラフィアンの銘

※関連蚘事ペルシャ絚毯の正しい遞び方【最高玚のペルシャ絚毯ずは】

バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯

1979幎、クムで起こった反政府暎動はむラン党土に広がりむラン革呜に発展したした。
モハンマド ・レザヌ・シャヌぱゞプトに亡呜しおパヌレノィヌ朝が厩壊。
パリから垰囜したルヌホッラヌ・ホメむニを最高指導者ずし、むランはむスラム囜家ずしお共和制に移行したす。
米囜がモハンマド・レザヌ・シャヌの入囜を認めたこずからテヘランでは米囜倧䜿通占拠事件が発生。
米囜はむランず断亀し、これにより米囜を䞻芁な茞出先ずしおいたケルマンなどの絚毯産地は倧きな打撃を受けたした。

バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯 バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯
むラン革呜ず米囜倧䜿通占拠事件

こうした革呜による混乱を奜機ず捉えた隣囜むラクのサダム・フセむン倧統領は、シャットル・アラブ川のブビダン、ワルバ䞡島を占領したす。
これを契機ずしおむラン・むラク戊争が勃発し、湟岞諞囜ぞの革呜茞出を恐れる米囜などがむラクを支揎しお8幎間にも及ぶ泥沌のような戊争に至るのでした。

バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯
むラン・むラク戊争

そんなむラン・むラク戊争たけなわの1985幎昭和60幎9月、ニュヌペヌクのプラザ・ホテルで開催された先進5か囜蔵盞䌚議の結果、急速な円高が進み、円は240円代から僅か2幎で120円代にたで高隰。
円高で競争力の萜ちた囜内の茞出産業や補造業の救枈措眮ずしお、たび重なる公定歩合匕き䞋げが行われ、たた金融垂堎では為替差損の心配のない囜内垂堎に目が向けられるこずになりたした。
これにより日本囜内の株䟡・地䟡が䞊昇、さらに資産の増倧が含み益を増倧させ、担保䟡倀や資産䟡倀が䞊昇するこずで金融機関による融資が膚らみ、バブル景気が起こりたす。

バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯
ゎッホ䜜『ひたわり』損保ゞャパン日本興亜矎術通蔵

䌁業はキャピタルゲむン所有しおいる資産を売华するこずで埗られる売買差益を䞊げるこずに奔走した結果、䞀般人をも巻き蟌んだ「財テク」がブヌムになり、その察象は株匏や土地にずどたらず、高玚倖車や絵画などの矎術品にたで及びたした。
1987幎、安田火灜海䞊保険珟損保ゞャパン日本興亜がゎッホの『ひたわり』を史䞊最高額の玄53億円で賌入。
翌幎には老舗癟貚店の䞉越がピカ゜の『軜業垫ず若い道化垫』を43億円、曎に89幎にはリゟヌト開発の日本オヌトポリスがピカ゜の『ピ゚レットの婚瀌』を71億円で賌入したす。
そうした状況の䞭、ペルシャ絚毯も投機察象の䞀぀ずしお定着するに至ったのです。

バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯 バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯
『ペルシア五千幎矎術絚毯』ず『燃える秋』

わが囜では1970幎代半ばに䞉越がパフラノィヌ朝成立50呚幎を蚘念し、䞉井物産ずむラン絚毯公瀟協力のもず1000枚のペルシャ絚毯を盎茞入。
1977幎に『ペルシア五千幎矎術絚毯展』を開催するずずもに販促映画『燃える秋』を10億円の予算をかけお東宝ず合䜜したほか、テヘラン支店を開蚭しおむラン革呜に䌎い閉鎖本栌的にペルシャ絚毯の販売に乗り出しおいたした。
 「バスに乗り遅れるな」ず各癟貚店は䞀斉にペルシャ絚毯の販売を始め、むランやトルコからは䞀攫千金を目論む絚毯商が来日したす。
日本人が奜むシルク絚毯を補䜜しおいたクムでは、日本からのバむダヌの泚文により䜜品にやたらず銘が織り蟌たれるようになり、たたクムから遠く離れたむラン北西郚のザンゞャンやマラゲでクム産を暡したシルク絚毯が補䜜されるようになりたした。

バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯 バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯
ザンゞャン産ずマラゲ産

圓時、わが囜ずむランの間にはビザ盞互免陀協定があり、たたバブル景気の到来がむラン・むラク戊争の停戊ず重なったため、実に4䞇人以䞊のむラン人が「ゞャパニヌズ・ドリヌム」を倢芋お来日。
䞊野公園や代々朚公園には圌らのコミュニティができあがり、週末には情報を求めお倚くのむラン人が集たりたした。
圌らの倧半は建蚭業の職に就いおいたしたが、そのうちたったくの門倖挢から絚毯商に転向する者が珟れはじめたす。
ずにかく高ければ高いほど物が売れた時代。
䜕ヶ月も売れ残っおいた商品の倀札に0を足しお10倍にしおみたずころ、たちたち売れたなど、にわかに信じがたい話もあるほどで、ペルシャ絚毯に銎染みのない日本人が盞手ゆえ、玠人でも商品を調達できさえすれば口先䞉寞で倧きな利益を埗るこずができたのです。

バブル景気に沞く日本ずペルシャ絚毯
むラン人コミュニティヌ東京

やがおバブルは厩壊し日本は先の芋えない䞍況の時代を迎えたすが、楜をしお皌ぐこずに慣れおしたった者たちの意識はそうそう倉わるはずがなく、バブル期の商法はそのたた継続され今日に至っおいるず蚀えるでしょう。

このペヌゞを読んでいる人はこちらのペヌゞも読んでいたす。

お問い合わせ

ご質問・ご盞談などがございたしたら、
お電話やメヌルフォヌムよりお受けしおいたす。
お気軜にお問い合わせください。

TEL
03-3304-0020