ペルシャ絨毯の歴史

ペルシャ絨毯の歴史

ペルシャ絨毯の歴史

フェルドーシーが著した『王書』(シャーナーメ)には、ペルシャの地において絨毯製作が始まったのは先史時代に遡るとの記述があるものの、具体的にいつの時代からパイル絨毯が製作されてきたのかは闇の中で、まったくわかっていません。
16世紀サファヴィー朝に至るまでの作品は一枚も現存しておらず、それを特定する確固たる証拠は皆無だからです。
1949年に西シベリアのノボシビルスク南東にあるパジリク古墳な群で発見された、いわゆる「パジリク絨毯」については、長年アケメネス朝ペルシャで製作されたものとされてきました。
しかし最近の研究の結果、中央アジア説が有力になり、アケメネス朝説は廃れつつあるのが現状です。
とはいえ遥かなる昔からペルシャ絨毯が人々を魅了し、暮らしを彩る調度として、またときに富や権力の象徴として珍重され続けてきたのは紛れもない事実。
そんなペルシャ絨毯の歴史を辿ってゆくことにします。

パジリク絨毯とバシャダル絨毯

ソビエト考古学研究所によるパジリク古墳群の発掘調査は、1929年にミハイル・P・グリャズノフ主幹により1号墳が、1947年から1949年にかけてセルゲイ・I・ルデンコ主幹により2号墳から5号墳が実施されました。

パジリク絨毯とバシャダル絨毯
セルゲイ・イワノビッチ・ルデンコ(1885~1969年)

これらの古墳はスキタイ人特有の「クルガン」とよばれるもので、地中の玄室を校倉風に積み上げられた二重の木槨が囲み、天井は丸太を重ねた上に樹皮や枝、土を盛ってから石を積みあげた複雑な構造。
一帯は永久凍土帯ではないものの、その構造と一時的な気候条件とにより古墳内部まで浸入した土砂が冬に凍結したまま永久凍土と化し、遺体や副葬品が奇跡的に造築当時に近い状態で保存されていたのです。

パジリク絨毯とバシャダル絨毯 パジリク絨毯とバシャダル絨毯
パジリク古墳群と内部の様子

副葬品には土器や金属製品だけでなく、木製品、フェルトや織物などの繊維製品も多く含まれており、とりわけ5号墳から見つかった縦183センチメートル、横200センチメートルのパイル絨毯は、のちに「パジリク絨毯」として広く知られるようになりました。
炭素年代測定により紀元前260~250年頃に製作された推定されるこの絨毯は、トルコ結びで1平方メートル中約36万ノット。
フィールドの文様がニネベ(イラク)にあるアッシリア王宮の床装飾に、またボーダーの人馬像がペルセポリスのスキタイ人を描いた彫刻に酷似するなどしていることから、ルデンコらが唱えるアケメネス朝ペルシャで製作されたとする説が有力でした。

パジリク絨毯とバシャダル絨毯
パジリク絨毯

ところが最近になって、染料として使用されているのが地中海沿岸からイランのザグロス山脈にかけて分布するカーマイン種の介殻虫ではなく、インドや東南アジアを原産とするラク種の介殻虫であることが判明。
アケメネス朝説、アルメニア説を抑え中央アジア説が有力になっています。

パジリク絨毯とバシャダル絨毯 パジリク絨毯とバシャダル絨毯
ニネべとペルセポリスの彫刻

続いてルデンコは1954年、パジリクの西800キロにあるバシャダルの古墳群を発掘調査しました。
このとき調査では2号墳からパイル絨毯の断片が見つかります。
この絨毯は鞍敷として使用されていたものながら、1平方メートル中約49万ノットとパジリク絨毯を上回るノット数を有しているだけでなくパイルはペルシャ結びで結ばれており、この時代からすでに二通りの結び方があったことを示す興味深い発見となりました。
この小さな断片から文様を推し測ることはできませんが、やはり炭素年代測定の結果、パジリク絨毯よりも130年から170年ほど古いことが判明したのです。

パジリク絨毯とバシャダル絨毯 パジリク絨毯とバシャダル絨毯
バシャダル絨毯と両古墳群の位置関係

絨毯のほかにもパジリク古墳群からは騎馬像がアップリケされたフェルト製のタペストリーや木製の四輪馬車、アキケナス型の短剣など。
バシャダル古墳群からは動物文様がアップリケされたフェルト製の鞍覆いなど多くが出土しており、これらパジリク・スキタイ文化を物語る貴重な遺物の数々はサンクトペテルブルク(ロシア)のエルミタージュ美術館に収蔵されています。

パジリク絨毯とバシャダル絨毯
エルミタージュ美術館とパジリク・バシャダル展示室(正面がパジリク絨毯)

書物や細密画の中のペルシャ絨毯

イラン北東部の青銅器時代の古墳から絨毯製作に用いたと推測されるナイフが出土していることから、イラン高原においてもパジリク絨毯やバシャダル絨毯が製作された頃には既にパイル絨毯が製作されていたのは間違いなさそうです。
しかし現存するものがない以上、その姿については遺された書物や細密画から想像するしかありません。

書物や細密画の中のペルシャ絨毯
クテシフォンの遺跡

アッバス朝期のイスラム法学者であったアブー・ジャーファル・タバリーが著した『諸使徒と諸王の歴史』には、ササン朝の都クテシフォンの王宮に敷かれていた絨毯についての記述があります。
「ホスローの春」あるいは「バハレスタン」(ペルシャ語で「春の国」の意)とよばれるその絨毯は、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主ホスロー1世の治世下において製作されたもので、四季をテーマに製作された4枚のうちの1枚とされます。

書物や細密画の中のペルシャ絨毯 書物や細密画の中のペルシャ絨毯
アブー・ジャーファル・タバリー(838~923年)と『諸使徒と諸王の歴史』写本の挿絵(14世紀頃)

それによれば、この絨毯は縦140メートル、横27メートルの巨大なサイズ。
絹の地に金糸や銀糸、様々な宝石を用い花々が咲き乱れる春の景色が織り出されていたといいます。
『諸使徒と諸王の歴史』は内容の正確さと詳細さで知られていますが、この絨毯がどのような構造であったかについては明らかにされていません。
可能性としては綴織のキリムに宝石・貴石を縫い付けたもの、パイル織であれば綴織を組み合わせたポロネーズ絨毯と同じ「スフ」の地に宝石を縫い付けたものなどが考えられます。

書物や細密画の中のペルシャ絨毯
スター・ラティス・カーペット

2009年にカタールで開催されたサザビーズのオークションに出品され550万ドルで落札された「スター・ラティス・カーペット」は、メディナの預言者のモスクへの供物としてインド中西部バローダのマハラジャの命により1860年から5年の歳月をかけて製作されたもので、100万個以上の天然のバスラ真珠のケシ(小さな真珠)にダイヤモンド、エメラルド、サファイア、ルビーが縫い付けられていました。
スター・ラティス・カーペットは絨毯ではなくスーザニですが、もしかしたら同じようなものであったのでしょうか。
ただし、タバリーにせよ伝承に基づいて記述しているにすぎず、ホスローの春が実在したことを裏づける一次資料は存在しません。
ちなみにホスローの春は637年、イスラム軍の侵攻を受けササン朝の都クテシフォンが陥落した際、王宮の謁見室に乱入したアラブ人によりバラバラに切り刻まれて持ち去られと伝えられます。

書物や細密画の中のペルシャ絨毯
15世紀前期の細密画(1436年)

その後イランにおいてはイルハン朝やティムール朝の時代、古来のビザンチン・ヘレニズム芸術に中国絵画の要素を取り入れたた細密画(ミニアチュール)が発達しました。
その中には多くの絨毯が描かれていて、遺物の存在しないこの時代のペルシャ絨毯を知る手がかりとなっています。
15世紀前半の細密画に描かれた絨毯は八角形や菱形を並べた総文様でボーダーにはクーフィー体の文字があり、15世紀の西洋絵画に登場するトルコ絨毯に類似したデザイン。
15世紀後半になると文様は曲線を帯びた流麗なものとなり、メダリオンを配したものも登場します。
ただし、これら細密画に登場する絨毯がどれだけ実物に忠実であるかはわかりません。

書物や細密画の中のペルシャ絨毯
15世紀後期の細密画

現存する最古のペルシャ絨毯

現存するペルシャ絨毯のうち、製作年が織り込まれている最古の作品は、現在ミラノのポルティ・ペッツォーリ美術館が所蔵する「狩猟文様絨毯」とされます。

現存する最古のペルシャ絨毯
狩猟文様絨毯

狩猟文様絨毯は1870年にローマのクイリナーレ宮殿で見つかったもの。
クイリナーレ宮殿は1583年にローマ教皇であったグレゴリウス7世13世の夏の住居として建てられたれた宮殿で、かつては教皇の住居と教皇領政府が置かれていました。
1870年にヴィットリオ・エマヌエレ2世のイタリア王国によりローマが占領されて教皇領が廃止され、宮殿内を片づける際に7枚の断片として出てきたと言われます。

現存する最古のペルシャ絨毯
クイリナーレ宮殿

イタリア王国第2代国王ウンベルト1世の妃、マルゲリータ・ディ・サヴォイアの命によりそれらは繋ぎ合わされて一枚になりますが、いくつかの欠損箇所がありました。
欠損した部分の一つは1980年になってから、東洋美術学者であるジョン・エスケナジ博士が個人のコレクションの中から発見しています。

現存する最古のペルシャ絨毯 現存する最古のペルシャ絨毯
狩猟文様絨毯(部分)

それはさておき縦5.70メートル、横3.65メートルのこの絨毯はタブリーズで製作されたものとされ、フィールドには狩猟に興じる男たちの姿と大きなメダリオンが配されています。
メダリオンの中心には作者ギヤース・ウッディン・ジャミの名とイスラム暦929年(西暦1522/3年)の年号が織り込まれているのですが、929年が949年と読めるとして946年(西暦1539/40年)に製作されたアルデビル絨毯の方が古いとする説もあり、すっきりしません。
年号が織り込まれていない絨毯については詳細な製作年を知る由もありませんが、後述する「チェルシー絨毯」を現存する最古のペルシャ絨毯と見る研究者もいます。

現存する最古のペルシャ絨毯
ポルティ・ペッツォーリ美術館の展示室(左壁面が狩猟文様絨毯)

ペルシャ絨毯の最高傑作

おそらく世界中でもっとも有名で、なおかつ最高傑作と称されるのがビクトリア・アルバート美術館とロサンゼルス郡立美術館(以下LACMAと記述)が所属する「アルデビル絨毯」でしょう。
こちらはイスラム暦946年(西暦1539/40年)にマクスド・カシャーニが製作した約60平米の大作。
パイルに毛、縦横糸に絹を使用したこの絨毯の産地はタブリーズと言われます。

ペルシャ絨毯の最高傑作
アルデビル絨毯

しかしタブリーズはこの絨毯が製作された年には既にオスマン・トルコに占領されていることから、タブリーズ説に異議を唱える者は多いのが実際。
作者マクスドの姓が「カシャーンの人」を表すカシャーニであることをして、カシャーンで製作されたとする説もありますが、これとて推測に過ぎません。
アルデビル絨毯はのちにサファヴィー朝を興すこととなる神秘教団の始祖、シェイフ・サフィ・エッディンの霊廟に納められていたものですが、アルデビル絨毯の名はこの廟があるアルデビルの地名に由来したものです。

ペルシャ絨毯の最高傑作
シェイフ・サフィ・ウッディン廟

なおアルデビル絨毯が二枚存在するのは、この絨毯がペアで製作されたから。
霊廟の改修費を捻出するため売りに出されたペアの絨毯を購入したのは、当時イランに進出していた英国の貿易商ジーグラー商会でした。
1890年にジーグラー商会が入手した際、2枚の絨毯は何れも大きな損傷が認められる状態にあったと言います。
ロンドンの美術商ヴィンセント・ロビンソンがそれらを買い取り、個々の傷みのない部分を縫合して完全な一枚にしたのちサウス・ケンジントン美術館(のちのビクトリア・アルバート美術館)に売却を打診。
資金がないとして購入に消極的な美術館を説得するため、自ら浄財を集めて回ったのが芸術家のウィリアム・モリスでした。
1893年、サウス・ケンジントン美術館は2500ポンドでアルデビル絨毯を購入します。

ペルシャ絨毯の最高傑作 ペルシャ絨毯の最高傑作
ウィリアム・モリス(1834~1896年)とジャン・ポール・ゲティ(1892~1976年)

ヴィンセント・ロビンソンは残された断片を繋ぎ合わせて鑑賞に耐えられる形にしたのち、米国の収集家クラレンス・マッケイに売却。
その後、幾人かの収集家の手を経て1931年にロンドンで売りに出されたもう一枚のアルデビル絨毯は、5万7000ドルで美術商のドヴィン卿の所有となります。
ドヴィン卿はエジプト王ファルーク1世が、イランのモハンマド・レザー皇太子(のちのモハンマド・レザー・シャー)に嫁ぐ妹ファウズィーヤの嫁入り道具にしたいとのオファーを断ったとまで噂されましたが、1938年にパリの展示会に出展されているのを見た米国の石油王ジャン・ポール・ゲティのオファーを受け70,000ドル弱で譲渡。
ゲティは、かねてから所有していた戴冠式絨毯(後述)とともにロサンゼルス郡立美術館に寄贈したのでした。

ペルシャ絨毯の最高傑作 ペルシャ絨毯の最高傑作
ビクトリア・アルバート美術館とロサンゼルス郡立美術館のアルデビル絨毯展示室

宮廷工房Ⅰ

サファヴィー朝期のペルシャでは宮廷の保護のもと各地に工房が開設され、ペルシャ絨毯は黄金期を迎えました。
とりわけ第2代君主タハマスプ1世と第5代君主アッバス1世の治世下において名だたる逸品が誕生しています。

宮廷工房Ⅰ
タハマスプ1世(1514~1576年)

タハマスプ1世(在位:1524~1576年)の時代に製作されたものとしては、前述した狩猟文様絨毯やアルデビル絨毯のほか「チェルシー絨毯」や「戴冠式絨毯」「ポルトガル絨毯」がその代表格。
チェルシー絨毯はそのデザインがティムール朝期の細密画に描かれた総文様の絨毯に似ていることから、メダリオンのある狩猟文様絨毯やアルデビル絨毯より古いとする説があり、また産地についてもイラン北部か中部かで意見が分かれています。

宮廷工房Ⅰ
チェルシー絨毯(ビクトリア・アンド・アルバート美術館蔵)

アルデビル絨毯を上回る72万ノットの緻密な織りを持つこの絨毯の名は、1877年にロンドン南西にあるチェルシー街の美術商からサウス・ケンジントン美術館(現ビクトリア・アンド・アルバート美術館)がこれを購入したことに由来するもの。
メダリオン・オール・オーバーのデザインが特徴的なこの絨毯は2005年に来日し、東京都の世田谷美術館で開催された『宮殿とモスクの至宝展』にお目見えしました。

宮廷工房Ⅰ
チェルシー絨毯の部分

戴冠式絨毯は1902年8月9日、ウェストミンスター寺院で行われたエドワード7世英国王の戴冠式の際、玉座の前に敷かれたものです。
エドウィン・オースティン修道院の絵画にも描かれたこの絨毯は、縦701センチメートル、横366センチメートル。
フィールドには流れる水を表す青いカルトゥーシュと花々で満ちた樹木や糸杉、中国から伝わった龍、鳳凰、麒麟が織り出されており、その様から「パラダイス・ガーデン・カーペット」とも呼ばれます。

宮廷工房Ⅰ
戴冠式絨毯(ロサンゼルス郡立美術館蔵)

戴冠式の際、絨毯は米国の資産家マースデン・ペリーが所有していました。
その後、幾人かの元を経て、石油王のジャン・ポール・ゲティの手に渡ります。

宮廷工房Ⅰ
エドワード7世戴冠式図(エドウィン・オースティン修道院蔵)

ゲティは世界的な美術収集家として知られる一方「類まれなるケチ」としても有名で、のちに孫のジョン・ポール・ゲティ3世が誘拐された際には身代金を値切りつつ、美術品に惜しみなく金を使っていたと伝えられるほど。
そんなゲティでしたが英国に移住した翌年の1949年、戴冠式絨毯を前述したアルデビル絨毯とともにロサンゼルス郡立美術館に寄贈したのでした。
戴冠式絨毯はアルデビル絨毯同様ペアで製作されたもので、もう一枚はドイツのベルリン美術館に収蔵されています。

宮廷工房Ⅰ
戴冠式絨毯(部分)

ポルトガル絨毯はコーナーに名の由来となったポルトガル船とポルトガル人が織り出された一連の作品。
他に類を見ないこのユニークな絨毯は、インドで製作されたとする説もあるものの、イラン北東部のホラサン地方で製作されたとするのが定説となっています。

宮廷工房Ⅰ 宮廷工房Ⅰ
ポルトガル絨毯(オーストリア工芸美術館蔵、ポルトガル国立古美術館蔵)

旧約聖書文書の一つである『ヨナ書』には、次のような記述があります。
ニネベに行って預言を伝えるよう神に命じられたヘブライ人のヨナ(イオナ、ジョナス、ユーノスとも)は、イスラエルの敵国アッシリアに行くことをためらい、地中海の彼方にあるタルシシュに向かう船に乗り込みました。
船は神が起こした嵐に巻き込まれて立ち往生。
ヨナは「私を海に投げ込めば嵐は収まる」と告げ、船員たちは彼の言葉に従います。
海中で神が遣わした大魚に飲み込まれたヨナは三日三晩を大魚の腹中で過ごし、脱出した後、ニネベに赴き「40日後にニネベが滅ぶ」との預言を伝えたのでした。

宮廷工房Ⅰ
中世の写本に描かれたヨナ

また1537年、西インドのグジャラート王国のバハードル・シャー(在位:1526〜1537年)が溺死するという事件が起こります。
ムガール朝に抗するためポルトガルの加護を期待したバハードル・シャーは、自国領ディウにポルトガルが要塞を造ることを許可。
しかし、ポルトガルはグジャラートから退去したため、要塞の取り壊しを願うべくバハードル・シャーはポルトガル船へと出向きますが、陸に向かう途中、海に落ちて溺れ死んでしまいました。

宮廷工房Ⅰ
バハードル・シャーの最後を描いた細密画

実はバハードル・シャーは殺害されたのですが、ポルトガル絨毯に描かれているのはこの事件もしくは前述したヨナの伝説ではないかと考えられています。
また、陸と海からなる地球の縮図をフィールド上に表現したものではないかとする説もありますが、ポルトガル本国あるいはポルトガル領インドに向けて製作されたものであることは間違いなさそうです。

宮廷工房Ⅰ
ポルトガル絨毯の部分(オーストリア工芸美術館蔵)

宮廷工房Ⅱ

アッバス1世(在位:1588〜1629年)の時代に製作されたペルシャ絨毯としては「花瓶文様絨毯」や「ポロネーズ絨毯」「サングスコ絨毯」が代表格と言えるでしょう。

宮廷工房Ⅱ
アッバス1世(1571~1629年)

花瓶文様絨毯(ベース・カーペット)は花瓶とパルメット、ロゼットを斜格子状に繋いだ一連の作品で、今日、断片をも含めて50枚ほどが現存しているとされます。
とりわけビクトリア・アンド・アルバート美術館が所蔵する有名な一枚は、詩人・デザイナー・社会主義運動家でペルシャ絨毯についての造詣も深かったウィリアム・モリスが所蔵していたもの。
1897年にビクトリア・アンド・アルバートの前身であるサウス・ケンジントン美術館がモリスからこれを譲り受けるのですが、彼はその扱いに困り、自宅の壁から壁へと天蓋の如く吊るしていたと言われます。

宮廷工房Ⅱ
花瓶文様絨毯(ビクトリア・アンド・アルバート美術館蔵)

産地についてはケルマンとする説やジョーシャガンとする説があるものの、いずれも決定打を欠いていて定かではありません。
すべての花瓶文様絨毯は、細い2本の糸と太い1本の糸を横糸に使用したトリプル・ウェフトで製作されており、構造上の大きな特徴になっています。

宮廷工房Ⅱ
花瓶文様絨毯の部分

続いてポロネーズ絨毯ですが、こちらは金銀糸のキリム(綴織)と絹のパイル織とを組み合わせた装飾性の高い一連の作品で、イスファハンもしくはカシャーンの宮廷所縁の工房で製作されたとするのが定説。
「ポーランド絨毯」とも呼ばれるこれらの絨毯は230枚ほどが現存していると言われ、そのうちの一枚は京都の南観音山保存会が所有しています(後述)。

 
ポロネーズ絨毯(レジデンツ博物館蔵、ワルシャワ国立古美術館蔵)

ポーランドで製作されたものと信じられてきたのが名の由来で、そうした誤解を生んだのは同国にはキリム織りの伝統があることに加え、ポーランドの王侯貴族の紋章が織り出されていた幾枚かが存在していたからでした。
ウィーン万博のポーランド館に展示された際にも、それに疑念を抱く者はいなかったと伝えられますが、のちにポーランド王ジグムント3世が娘アンナの嫁入り道具とするため1601/02年にサファヴィー朝ペルシャに注文したことを示す記録が見つかり、イラン製であることが判明したのです。

宮廷工房Ⅱ
ポロネーズ絨毯の部分(レジデンツ博物館蔵)

そして、サングスコ絨毯。
こちらはリトアニアのパウエル・キャロール・サングスコ・ルバートウィックス王子(1682〜1752年)の旧蔵品をはじめとする一連の作品で、その名は王子の名に由来したものです。
十数枚が現存すると言われるサングスコ絨毯はケルマンで製作されたものと言われてきました。
しかし、後述する鳥獣文様キリムと共通する文様が多く、また首都であるイスファハンから遠く離れたケルマンに宮廷直営の工房があったとは考えにくいとして、産地をイスファハンもしくはカシャーンとする説もあります。

宮廷工房Ⅱ 
サングスコ絨毯(ミホ・ミュージアム蔵、イラン絨毯博物館蔵)

産地についてはともかく、その傑作とされる一枚は1995年に宗教法人の神慈秀明会が約10億円で購入し、滋賀県甲賀市のミホ・ミュージアムに収蔵しました。
この絨毯は製作されてからの経緯は明らかでないものの、やがてオスマン帝室の所有となり、その後戦利品としてサングスコ家のものとなったと伝えられます。
米国ペルシャ美術考古学研究所長アーサー・ウブハム・ポープの仲介により、1954年からはニューヨークのメトロポリタン美術館に展示されていました。

宮廷工房Ⅱ
サングスコ絨毯の部分(ミホ・ミュージアム蔵)

宮廷工房Ⅲ

サファヴィー朝期に製作されたペルシャ絨毯のうち、現存しているものは1500枚前後といわれます。
その中の幾枚かはサザビーズ、クリスティーズに代表される名門オークション・ハウス主催のオークションに登場。
驚愕の値段で落札され世界の話題をさらいました。

宮廷工房Ⅲ
サザビーズのオークション会場(2013年、ワシントンDC)

1991年にロンドンで開催されたクリスティーズのオークションに出品されたメダリオン文様絨毯が、240万ドル(約3億2000万円)で落札されます。
16世紀にタブリーズで製作されたとされる絨毯で、縦6.60メートル、横3.58メートル。
英国のナサニエル・ロスチャイルド男爵からオーストリアのアルベルト・ザロモン・アンゼルム・フォン・ロートシルト(英語読み:ロスチャイルド)男爵が継承し、第二次世界大戦中ナチスによって略奪されたものと伝えられます。
落札したのはカタール首長であったハマド・ビン・ハリーファ・アッサーニーで、この絨毯は2008年カタールの首都ドーハに開館したイスラム・アート美術館(MIA)に収蔵されました。

宮廷工房Ⅲ
240万ドルで落札されたメダリオン文様絨毯

2008年にはクリスティーズのオークションに出品されたペルシャ絨毯が、445万ドル(約4億7000万円)で落札されます。
この絨毯は縦2.31メートル、横1.70メートル。
17世紀初頭、アッバス1世の時代にイスファハかカシャーンで製作されたと考えられる総シルクの絨毯です。
米国の資産家で、園芸家、美術収集家、慈善活動家としても知られたドリス・デュークの旧蔵品で、1990年に彼女がイスラム美術収集家のグレイス・レイニー・ロジャーから譲り受けたものでした。

宮廷工房Ⅲ
445万ドルで落札されたシルク絨毯

続いて2010年、クリスティーズ・ロンドンのオークションで、17世紀中頃にケルマンで製作されたと言われる花瓶文様絨毯が720万ユーロ(約7億2000万円)で落札されます。
この絨毯は、もとは1939年に亡したフランスの資産家の旧蔵品で、1987年にモナコで開催されたオークションにも出品されたもの。
このときはドイツのディーラーが落札するものの、彼は落札した絨毯を家政婦への贈物とし、家政婦もまたバイエルンに住む友人女性へ進呈します。
常々「わが家には大きすぎる」と考えていたこの女性は、亭主の没後この絨毯をアウグスブルグのオークション・ハウスに委託し、2万ユーロ(約210万円)でハンブルグのディーラーに譲ったのでした。

宮廷工房Ⅲ
720万ユーロで落札された花瓶文様絨毯

そして、2013年にはワシントンDCのコーコラン美術館で開催されたサザビーズ・ニューヨークのオークションに、17世紀中頃のケルマンで製作されたと言われるペルシャ絨毯が登場。
絨毯としては史上最高額の3370万ドル(約32億円)で落札されています。
この絨毯はモンタナ州選出の上院議員で鉱業家、銀行家であったウィリアム・A・クラークの旧蔵品で、彼の名を冠して「クラーク・サイクル・リーフ絨毯」と名付けられました。
サイクル・リーフは鎌状の葉のことです。
縦2.67メートル、横1.96メートルのこの絨毯の落札価格はサザビーズの予想価格の約6倍でした。

宮廷工房Ⅲ
クラーク・サイクル・リーフ絨毯

落札者の名は非公開であることから、これらのうちイスラーム・アート美術館にある一枚以外は、どの国に行ったのかさえわかっていません。
なお、過去に1億円以上の価格で取引されたペルシャ絨毯は、イラン絨毯公社が製作した巨大な絨毯(コラムを参照)等の特殊な例を除けば、すべてサファヴィー朝期に製作されたものです。
19世紀以降に製作された作品で、そのような価値を有する者はまず存在しないと考えてよいでしょう。

日本に渡ったペルシャ絨毯

わが国にペルシャ絨毯が伝わったのは17世紀から18世紀、ポルトガル・スペインあるいはオランダ東インド会社との海上貿易によったとされています。
当時「毛氈」(もうせん)とよばれた絨毯は、長崎・平戸の商人から幾人かの手を経て将軍や大名への献上品などとして使われることになるのですが、『平戸オランダ商館の日記』におそらくポロネーズ絨毯であろうものについての記述はあるものの、詳しくは触れられていません。

日本に渡ったペルシャ絨毯 
『平戸オランダ商館の日記』と復元されたオランダ商館内部

京都市東山区の鷲峰山高台寺に豊臣秀吉が所用していたと伝えられる陣羽織が現存しています。
これは絨毯ではなく綴織のキリムを加工したものですが、このキリムにはウールではなく金糸や銀糸が使用されていることから、ポロネーズ絨毯同様、16世紀後半から17世紀初頭にイスファハンあるいはカシャーンの宮廷所縁の工房で製作されたものと推測されます。
同時期にペルシャの宮廷所縁の工房で製作されたとされるキリムは世界に数枚が現存するのみで、この陣羽織のキリムはルガノ(スイス)のティッセン・ボルネミッサ財団の所蔵品に酷似していることから、同じ工房で製作されたとの見方もあります。
米国ペルシャ美術考古学研究所長のアーサー・ウブハム・ポープは、滋賀県のミホ・ミュージアムが所蔵するサングスコ絨毯についても同じ工房で製作されたものと見解しました。
ちなみ高台寺は秀吉の菩提を弔うために北政所が建立した寺院で、秀吉の伝世品が多く収 められていることで知られています。

日本に渡ったペルシャ絨毯 日本に渡ったペルシャ絨毯
豊臣秀吉の陣羽織(高台寺蔵)と鳥獣文様キリム(ティッセン・ボルネミッサ財団蔵)

祇園祭の南観音山の前懸として使われているのは17世紀中期に製作されたとみられるポロネーズ絨毯です。
これらわが国に渡来したペルシャ絨毯のいくつかは、やがて山鉾の懸装品(かけそうひん)として使用されてきました。
懸装品とされた絨毯にはポロネーズ絨毯以外にも、18世紀中頃にわが国に渡来したペルシャ絨毯と推定されるものがいくつもあったのですが、それらの多くは実はムガール朝インドのデカン地方で製作された絨毯であることが近年の研究で明らかになっています。
これらの絨毯は保存状態を維持するため、2014年に山形のオリエンタルカーペット株式会社が製作した複製品と交換されました。
似た類の絨毯は徳川家の伝世品をいまに伝える徳川美術館にも収蔵されています。

日本に渡ったペルシャ絨毯 
南観音山と前掛のポロネーズ絨毯(南観音山保存会蔵)

もはやサファヴィー朝期に製作されたペルシャ絨毯の名品は市場に出回ることがないと言われ、その断片でさえ入手が困難となっているのが現状です。
前述したサングスコ絨毯をはじめ、貴重なサファヴィー絨毯の数々が日本国内に存在するのは研究家や収集家にとってはもちろん、一般の人たちにとっても実に幸いなことと言えるのではないでしょうか。

日本に渡ったペルシャ絨毯 
サファヴィー朝期のペルシャ絨毯断片(フルーリア蔵)

サファヴィー朝の滅亡と絨毯産業の凋落

「世界の半分」とまで謳われるほど栄華を誇ったサファヴィー朝も、アッバス1世亡きあとは徐々に衰退します。
1722年にミール・マフムード率いるアフガン軍に首都イスファハンを占領され事実上滅亡しました。
こうしてパトロンを失った宮廷御用達の絨毯工房はすべて閉鎖され、都市部における絨毯産業は途絶えてしまったと伝えられます。
とはいえ、宮廷の保護とは無縁であった農村部や遊牧民における絨毯製作は変わることなく続けられました。

サファヴィー朝の滅亡と絨毯産業の凋落
ナーディル・シャー(1688~1747年)

サファヴィー朝の王族たちを処刑したミール・マフムードが1725年に暗殺されると、アフシャル部族連合出身のナーディル ・クリー・ベグがアフシャル朝を興しナーディル ・シャーとして即位。
アフガニスタン、インドに侵攻し、1739年にはムガール朝を破ってデリーを占領します。
この遠征により戦利品として持ち帰られた絨毯の数々はイラン各地に運ばれ、やがて農村部や遊牧民により製作される絨毯のデザインに採り入れられるようになりました。

サファヴィー朝の滅亡と絨毯産業の凋落
19世紀初頭のヘラティ文様絨毯(イラン北西部、1820年)

元来ホラサン地方の伝統文様であったヘラティがイラン北西部や南西部の絨毯に見らるのは、またカシュガイ絨毯のミフラブ文様がムガール絨毯のそれと酷似しているのは、これが理由とされています。
しかし、こうした村や遊牧民の絨毯は本来が自家用あるいは身近な換金用を目的として製作されたものであるがゆえ、輸出に回されることはほとんどなく、イランの主要な輸出産業は生糸の生産であったのです。

サファヴィー朝の滅亡と絨毯産業の凋落 
18世紀のムガール絨毯と19世紀のカシュガイ絨毯

絨毯産業復興のきっかけを作った英国企業

19世紀の半ば、ヨーロッパで発生した微粒子病がトルコからイランに伝播し、イランの主要な輸出品であった生糸産業は大きな打撃を受けました。
生糸に変わる輸出品として白羽の矢が立ったのが絨毯です。
これは王侯貴族を中心とする上流階級のみを対象としていたサファヴィー朝期とは異なり、産業革命以後増え続ける中産階級にまで裾野を広げたものでした。

絨毯産業復興のきっかけを作った英国企業
ウィーン万博のペルシャ館

1873年に開催されたウィーン万博以降、ヨーロッパにおける絨毯の需要は格段に増します。
そんな中、英国マンチェスターの貿易商ジーグラー商会がイランに進出。
1883年、スルタナバード(現在のアラク)に支店を開設し綿製品の販売に乗り出しました。

絨毯産業復興のきっかけを作った英国企業
ジーグラー商会スルタナバード支店

支配人のオスカー・シュトラウスは綿製品の代金として受け取るロシア金貨で古い絨毯を買い集め、本国で売り捌くことを思いつきます。
ところがイランに残るサファヴィー朝期の絨毯はすぐに底をつきました。
そこでシュトラウスはスルタナバードに絨毯工房を開設し、新たに絨毯を製作し始めたのです。
彼の目論見は当り、最盛期には2500台に及ぶ織機を有するに至りました。

絨毯産業復興のきっかけを作った英国企業
ジーグラー商会の絨毯工房(スルタナバード)

ジーグラー商会に追随する形で他の外国企業やタブリーズの商人たちもイラン各地に絨毯工房を開設。
ロシアとの戦争や内乱で疲弊していた当時のイランには失業者が溢れており、彼らの受け皿となった絨毯産業はたちまちのうちに都市部にも拡がってゆきます。
こうしてイランにおける絨毯産業は見事な復興を遂げていったのでした。

絨毯産業復興のきっかけを作った英国企業  絨毯産業復興のきっかけを作った英国企業
ジーグラー絨毯

日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物

この頃カジャール朝下のペルシャに向けて、日本から使節団が派遣されます。
駐ロシア公使であった榎本武揚がウィーン万博の帰りにロシアを訪れていたナセル・ウッディン・シャーに謁見したことに端を発し、外務卿(大臣)井上馨の命により外務省御用掛であった吉田正春を正使とする使節団が編成されました。
吉田は土佐藩参政であった吉田東洋の子。
東洋が土佐勤皇党により暗殺された後は従兄の後藤象二郎(のちの逓信大臣、農商務大臣)に育てられたと言います。
使節団には副使として陸軍参謀本部から古川宣譽工兵大尉が、民間からは大倉組副社長の横山孫一郎、同社社員の土田政次郎ほか4名の商人が加わりました。

日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物
軍艦「比叡」

一行は軍艦「比叡」に同乗して横浜を出航。
このとき比叡艦長であった伊東祐亨中佐は日清戦争で連合艦隊司令長官として清国の北洋艦隊を破った、のちの元帥海軍大将です。
比叡は東南アジア、インドを経由して1880年(明治13年)7月、イラン南西部のブーシェフルに入港。
上陸した使節団の一行は、現地で料理人を雇い、真夏の砂漠地帯を駱駝に乗ってシラーズ、イスファハンを経由して進み、9月にカジャール朝の首都テヘランに到着しました。
しかし吉田の官位が低かったため、シャーへの謁見はなかなか実現せず、一行はテヘランで足止めを食らいます。
ようやく謁見が叶った使節団はナセル・ウッディン・シャーから通商の許可を得るとともに明治天皇宛の国書を賜ったのでした。

日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物
ナセル・ウッディン・シャーから明治天皇に宛てた国書(外務省外交史料館蔵)

のちに吉田と古川は、ともにこのとき体験を著します。
古川の著書『波斯紀行』は吉田の著書に先駆けて1891年(明治24年)に出版されました。
この書籍の「事情之部 貿易物産」に毧氈(じゅうせん)すなわち絨毯について……此國ノ毧氈ハ尤モ著名ニシテ其染色久シキニ耐エ其組織緻密ニシテ頗ル雅致アリ歐洲人甚タ之ヲ愛ス是レエズド、ケルマン及クルジスタン地方ニ於テ製造スル者ナリ此外駱駝ノ毛ヲ糊シタル厚裀席アリ人家必ス此物及毧氈ヲ併セ敷ク……の記述があります。
短かい一文ながら、ペルシャ絨毯としての概要を解説したものでは、わが国において初のものであろうと思われます。
ただし、この書籍は出版元が参謀本部であり、なおかつ非売品であったことから大衆が目にする機会はほとんどありませんでした。

日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物
波斯紀行(フルーリア蔵)

ここで古川宣譽という人物について触れておきましょう。
古川は1849年(嘉永2年)江戸に生まれ、1866年(慶応2年)幕府の御持小筒組に出仕して差図役並(少尉)にまで昇りました。
戊辰戦争では江戸開城に抗して木更津に脱した福田八郎左衛門率いる撤兵隊(さっぺいたい=仏軍に倣った洋式歩兵隊)に従い木更津に脱出。
江原鋳三郎(のちの素六で麻布学園の創設者、国会議員)率いる第一大隊に属して船橋の戦いに参加します。
一説によれば大隊が海神で官軍の挟み撃ちに遭ったとき、江原を絶対絶命の窮地から救ったのが古川であっとのこと。

日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物
撤兵隊

維新後、古川は恩赦により出獄した江原が設立に関わった沼津兵学校に学び、1873年(明治6年)、陸軍少尉に任官しました。
1875年から4年間の清国駐在を経た後、古川は吉田正春使節団の副使としてペルシャ・トルコに派遣されます。
帰国後、古川は幼年学校長、工兵会議長等を歴任し、日清戦争では第二軍工兵部長兼兵站監、日露戦争では第四軍兵站監を務め、陸軍中将にまで昇りました。
1930年代に榎本健一とともに「エノケン・ロッパ」とよばれ一世を風靡した昭和の名喜劇役者、古川ロッパは宣譽の孫にあたります。

日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物
古川宣譽(1849~1921年)

なお、吉田正春の著書である『回彊探検 波斯之旅』は1894年(明治27年)、当時国内最大の出版社であった博文館から出版されました。
この書籍にも絨氈(絨毯)について記された箇所はあるものの、詳しくは触れられていません。

日本で最初にペルシャ絨毯を紹介した人物
イスパハン府市街中央ノ廣場(『波斯紀行』より)

マンチェスター・カシャーン

古川宣譽の『波斯紀行』の絨毯産地にタブリーズやカシャーン、イスファハンの名は登場しません。
また、吉田正春の『回疆探検 波斯之旅』にはイスファハンのバザールで目にした絨毯についての記述はあるものの、その製法は原始的な水平型織機を用いた部族民のものです。
タブリーズについては距離的に近いクルディスタンと一括りされたものと考えられますが、イスファハンやカシャーンについては、これらの町のでは絨毯産業がまだ復興していなかったからでしょう。

マンチェスター・カシャーン マンチェスター・カシャーン
吉田正春と『回彊探検 波斯之旅』(フルーリア蔵)

ところでカシャーンにおいて絨毯産業が復興する経緯については、ある一つの伝説があります。
その自然環境の過酷さから農作に不向きであったカシャーンの人たちは古来、手工芸を生業としてきました。
それゆえサファヴィー朝の滅亡以降、基幹産業を失ったカシャーンの町は衰退し荒れ果てていたと言います。
そんなとき、暮らしに困ったある人物が英国マンチェスターの商人から購入したまま倉庫に眠っている輸入品のメリノ・ウールで絨毯を製作することを発案。
アラクより嫁いできた妻に織らせたものが、いわゆる「マンチェスター・カシャーン」の先駆けとなり、カシャーンにおける絨毯産業の復興を牽引したというものです。

マンチェスター・カシャーン
マンチェスター・カシャーン

このある人物こそがハジ・モラー・モフタシャンだというのですが、今日モフタシャン作とされている作品とマンチェスター・カシャーンとは明らかに別物であるため、この説に疑問を抱く者は多いのが実際。
モフタシャンは「もっとも高貴な」を意味する称号であるとか、ボーダー近くまで配されたメダリオンとペンダントに、ややジオメトリックな唐草文様で、このデザインをモフタシャンとよぶとする者もいます。
フェラハン・サルークから影響を受けたと思われるそのデザインは20世紀に入ると大きな変化を見せるのですが、それを二代目へと代替わりしたためと唱える人たちも。
かくも議論をよぶのは当時の記録がまったく残されていないため。
ペルシャ絨毯については、たかだか100年ほど前のことであっても明らかにされていないことがたくさんあるのです。
なお、モフタシャン・カシャーンにはウール絨毯とシルク絨毯の両方があります。

 マンチェスター・カシャーン
モフタシャン・カシャーン

20世紀最高の絨毯工房

イランにおける絨毯産業は、19世紀末から第一次世界大戦に至るまでの30年間ほどの間に見事な復興を遂げました。
そんな中、のちに「20世紀最高の絨毯工房」と称される絨毯工房が登場します。
イラン北東部の町、マシャドのアブドル・モハンマド・アモグリによって開設された工房がそれ。

20世紀最高の絨毯工房 20世紀最高の絨毯工房
アブドル・モハンマド・アモグリ(?~1937年)とアリー・ハーン・アモグリ(1892~1957年)

アブドル・モハンマド の父親であるモハンマド・カフネモイはアゼルバイジャン地方の出で、もとは生糸商でした。
のちにモハンマドはタブリーズで絨毯を商いはじめ、1880年代にマシャドに移り住んでアモグリと改姓。
絨毯製作を開始したと伝えられます。
そんな父親のもとで育ったアブドル・モハンマドは絨毯に興味を抱いて育ち、アルデシールという名の小さな工房で絨毯作家としてのノウハウを身につけました。
そして、19世紀末に独立。
弟のアリー・ハーンが兄を手伝い、シャンディズやマフムーダバドに機を置いて事業を徐々に拡張してゆきます。

20世紀最高の絨毯工房
アモグリ工房の作品

アブドル・モハンマドのこだわりは、他所が真似できないほどに細かな織りの絨毯を作ること。
120万ノットから、ときに200>万ノットにも及ぶ繊細な作品は、布のようなしなやかさで世に知られるようになりました。
指図紙は著名なデザイナーであるアブドル・キャリーム・ケルマニとアブドル・ハミド・サナートネガルに依頼。
英国で出版された2冊のアンティーク絨毯の図録をもとに、サファヴィー朝期のデザインをアレンジして独自のものへと昇華させます。
当時のペルシャ絨毯とは明らかに一線を画すその作品に魅せられたレザー・シャーは、サーダバード宮殿と国会議事堂に敷く巨大な絨毯を発注しました。

20世紀最高の絨毯工房 20世紀最高の絨毯工房
サーダバード宮殿にある2枚のアモグリ作品

そうして名を知られたアブドル・モハンマドでしたが、暮らしは決して裕福ではなかったと言います。

アブドル・モハンマドが没してからも工房はアリー・ハーンにより運営されていましたが、1940年代後半に閉鎖されました。

※関連記事:ペルシャ絨毯の正しい選び方【最高級のペルシャ絨毯とは?】

一世を風靡したアメリカン・サルーク

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、輸出先の大半をヨーロッパに依存していたイランの絨毯産業は大きな影響を受けます。
それまでペルシャ絨毯の主要な輸出先であったドイツが戦争の当事者となったことにより、とりわけスルタナバードにおける絨毯産業は深刻な事態に直面したのでした。

一世を風靡したアメリカン・サルーク
第一次世界大戦後のドイツで起こったハイパー・インフレ

そんな中、ニューヨークに本社を置くK・S・タウシャンジャン社のS・ティリアキアンという人物がスルタナバードを訪れ、米国の市場に向けてデザインされた絨毯の製作を依頼します。
ローズ・レッドのフィールドに花の枝を散りばめたデザインはペルシャ絨毯の伝統からは逸脱したものでしたが、新たな輸出先を米国に見出したスルタナバードでは以後、これに類似したデザインの絨毯が続々と生産されました。

一世を風靡したアメリカン・サルーク 一世を風靡したアメリカン・サルーク
アメリカン・サルーク

これら「アメリカン・サルーク」とよばれる一連の作品は1920年代から30年代にかけて米国に大量に輸出され、一大ブームを巻き起こします。
その人気にあやかり、カシャーンやハマダン、ケルマンなどにおいてもアメリカン・サルーク風の絨毯が製作されるようになりました。
しかし、1929年のウォール街大暴落を機とする不況の影響を受け始め、1930年代にブームは終焉を迎えます。

一世を風靡したアメリカン・サルーク
カシャーン産(マンチェスター)

1920年代に製作されたアメリカン・サルークは流麗なシダ状の葉がフィールドの上下端と中心から湧き出るようなデザインですが、30年代には花束を一面に配した現在のデザインに近い形に変化してゆきました。

パフラヴィー朝の振興政策とイラン絨毯公社

1921年、ペルシャ・コサック旅団長であったレザー・ハーン大佐がバクチアリ部族連合の力を借りてテヘランを包囲。
このクーデターにより首相兼国軍最高司令官に就任した彼は、イランにおける英国の治外法権を撤廃して国民の信頼を得ます。
そして1925年、治療を理由にアフマド・シャーをフランスに渡航させると議会を動かしカジャール朝を廃止。
自ら「レザー・シャー」を名乗って皇帝の座に就き、パーレヴィー朝が成立しました。

パフラヴィー朝の振興政策とイラン絨毯公社
レザー・シャー(1878~1944年)

レザー・シャーは司法・財政・軍事・教育の各部門における制度改革や女性解放を推進して国の近代化を図るとともに、1935年にはペルシャ人の地を意味する「イラン」を正式な国名として定めます。
この年イラン絨毯公社(ICC)が設立され、それまでイランで操業していたジーグラー商会、イースタン・ラグ社、オリエンタル・カーペット・マニュファクチュアズ社(OCM)など外国企業の工場を国有化し、翌年から操業を開始しました。
絨毯産業を国の基幹産業の一つと捉えていたレザー・シャーは、世界恐慌の影響により撤退を始めた外国企業に雇われていた絨毯職人の雇用維持、更には外国人によって歪められたペルシャ絨毯のアイデンティティの復活を目指したのでした。

パフラヴィー朝の振興政策とイラン絨毯公社
イラン絨毯公社本部(テヘラン)

ジーグラー社はマンチェスターに本社を置く綿布商で、1883年にイランに進出。
タブリーズとスルタナバード(現在のアラク)に支社を開設し、英国に向けて自社工場で製作した絨毯を輸出していました。
ドイツ系英国人のオスカー・シュトラウスが総支配人となり、最盛期には2,500台に及ぶ織機を有するに至りました。

OCMは1907年末から1908年頭にかけてドイツ系英国人のジェームズ・ベイカーらにより設立された絨毯メーカーで、設立時の名称はベイカーズ社。
トルコのスマーナ(現在のイズミール)を拠点にヨーロッパに向けて絨毯を輸出していました。
1911年にベイカーズ社は組織を改めOCM(本社ロンドン)となり、イランに進出。
ハマダン、スルタナバード(現在のアラク)、ケルマンに絨毯工場を開設しました。
その支配人となったのがペルシャ絨毯研究家の先駆となったアーサー・セシル・エドワーズ(1881年-1953年)です。

イースタン・ラグ社はニューヨークに本社を置く絨毯商で、1890年頃イランに進出。
ケルマンに工房を開設し、米国に向けた絨毯を生産していました。

パフラヴィー朝の振興政策とイラン絨毯公社 パフラヴィー朝の振興政策とイラン絨毯公社

1934年、イラン政府はこれら外資系絨毯工房の国有化を宣言。
翌年にはICCが設立され、これらの工場を引き継ぐ形で1936年2月に操業を開始しました。
その背景には世界恐慌の影響を受けて撤退する外資系企業が生み出す多くの失業者の受け皿となることに加え、外国人によって歪められたイランの伝統工芸品としてのペルシャ絨毯のアイデンティティを回復することがあったと言われます。
外国公館や金融機関が集まるテヘラン市内フェルドーシー通りに本部を置き、全土に支部を置いた他、1954年にはテヘラン郊外のキャラジに紡績・染色・洗浄のための自社工場が開設されています。

ICCでは春先に採取した良質の羊毛(スプリング・ウール)を自社工場にて紡績したのち天然染料のみを用いて染色し、これを各産地に供給する方式を採用。
よって、どの産地のものにも同じ色が用いられている点がICC作品の大きな特徴のひとつになっています。
「村おこし」のために技術指導を行い新興産地をつくり出したことや、イランでは珍しい正札販売や割賦販売をとり入れ、庶民層へのペルシャ絨毯の浸透を推進したこともICCの功績と言ってよいでしょう。
2007年にアブダビのシェイク・ザイード・グランド・モスクに納められた5627平方メートル、重量47トンの世界最大の絨毯もICCが製作したものです。

イラン絨毯公社

最盛期には2万人の織子が在籍していたICCですが、現在は2,000人にまで減少。
生産量の不足を補うため2005年頃からは民間業者の納入を受け入れ、最近になって民営化されました。
ちなみにICC以外の国営絨毯工房としては、農業聖戦省に属する「手織絨毯生産組合」(ETFA)があります。
イスラム革命後の1985年に設立され、革命により投資家を失った絨毯産業の保護と雇用の維持を目的として絨毯製作を行っています。
87年には販売部門である手織絨毯販売組合も設立されました。

パフラヴィー朝の振興政策とイラン絨毯公社

第二次世界大戦後

やがて第二次世界大戦が勃発すると枢軸国寄りであったレザー・シャーは英ソの圧力を受けて退位。
息子のモハンマド・レザーが第二代皇帝として即位しました。
モハンマド ・レザー・シャーの治世下においても絨毯産業への振興政策は継続されますが、この大戦でもイランの絨毯産業は大きな打撃を受けます。
とりわけヨーロッパで人気のあったカシャン産やマシャド産の品質が低下するのはこれによるものでした。

第二次世界大戦後
モハンマド・レザー・シャー(1919~1980年)とファラ皇后(1938年~)

第二次世界大戦が終結して暫くすると、復興景気に沸くドイツには、イラン人絨毯商が大勢進出。
1960年代には自由貿易都市ハンブルグに住むイラン人絨毯商の数は2000人に達したと言います。
エルベ河口に位置するハンブルグは中世以来ハンザ同盟の中心となった町。
自由貿易港としての伝統をいまに伝えており、保税地区内にある絨毯については期間内であれば免税となるため、貿易の中継地としては最適でした。
こうしてハンブルグは19世紀以来のロンドンに代わり、ヨーロッパはもとより世界におけるペルシャ絨毯取引の一大拠点となるに至ったのです。

第二次世界大戦後
ハンブルグの保税地区

モハンマド・レザー・シャーの時代の傑出した絨毯作家としてはタブリーズのアリー・ハサン・アラバフ、イスファハンのレザー・セーラフィアンやハサン・ヘクマトネジャード、ナインのファットラー・ハビビアン、マシャドのアリーゴリー・サーベルら。
デザイナーではアラク(のちにイスファハン)のイーサー・バハードリーやイスファハンのアフマド・アルチャング、タブリーズ(のちにテヘラン)のラッサム・アラブザデらがあげられるでしょう。
ヘクマトネジャードはモハンマド・レザー・シャー御用達の工房として有名でした。

第二次世界大戦後 第二次世界大戦後

ハサン・ヘクマトネジャード(1930年~)と作品(イラン国立絨毯博物館蔵)

ペルシャ絨毯研究の先駆者

パフラヴィー朝の時代には、ペルシャ絨毯を一つの学問として研究しはじめる者が現れはじめます。
その先駆となった人物について触れておきましょう。

ペルシャ絨毯研究の先駆者
OCMのカタログ

その人物はアーサー・セシル・エドワーズという名の英国人。
オリエンタル・カーペット・マニファクチュアズ社(以下OCMと呼称)創業者の一人、ジェームズ・ベイカーの甥であるエドワーズは、OCMの事業をイランに拡大するため1911年、妻クララとともにイラン中西部のハマダンに赴任しました。
彼は手織絨毯の工場をハマダンのほか、スルタナバード(現在のアラク)、中南部のケルマンに開設し、絨毯産業の復興に貢献します。

ペルシャ絨毯研究の先駆者
『THE PERSIAN CARPET』(初版本)の目次

1923年、エドワーズはロンドンに戻りOCMの重役となりますが、イラン滞在中にペルシャ絨毯に魅了されてしまっていた彼は退職後の1948年、再び妻を伴い更に絨毯についての知識を深めるためイランを訪れました。
数か月をかけてイラン全土の産地を廻り、ペルシャ絨毯についての詳細なデータを集めたエドワーズですが、1953年にこの世を去ります。
その後、彼が遺した膨大な記録はクララが纏めて『THE PERSIAN CARPET』として出版。
世界中の絨毯研究者たちの手引書となりました。
同書は2018年4月7日、ジェラルド・ダックワース社から再版されています。

ペルシャ絨毯研究の先駆者
『THE PERSIAN CARPET』(ジェラルド・ダックワース社版)

セーラフィアンの登場

1973年10月の第四次中東戦争勃発を機にペルシャ湾岸6カ国が原油の減産と大幅な値上げを行い、第一次オイル・ショックが起こります。
これにより産油国であるイランでは富裕層が拡大。
イランの国内市場においてはイラン人に人気のあるカシャーン絨毯の需要が高まり、値段が高騰しました。
これを受け、イラン南部のアルダカンやヤズド、北東部のカシュマールにおいてカシャーン絨毯のコピー品が製作され始めます。

セーラフィアンの登場 
カシャーン産とアルデカン産

1976年には首都テヘランに国立絨毯博物館が建設されます。
博物館の外観はファラ皇后が絨毯の織機をイメージしてデザインし、収蔵品は絨毯好きで知られた皇后のコレクションにカジャール朝の元王族の寄贈品を加えたものが基盤になりました。
海外では1975年にワシントンDCのメトロポリタン美術館で開催された展示会をきっかけに、それまでは見向きもされなかったギャッベが注目されはじめます。

セーラフィアンの登場
国立絨毯博物館(テヘラン)

モハンマド・レザー・シャーの治世下において、もっとも名を知られた絨毯作家といえば、やはりレザー・セーラフィアン(1881~1975年)でしょう。
「セーラフィアン」は金融業者を意味する姓で、もともと金融業者で成功していたレザーが絨毯作家としての道を歩み始めるのは、全くの偶然からでした。
自宅にあった幾枚かの絨毯を買替える際、満足できる品が見つからなかったことから、彼は自身で絨毯を製作することを思い立ちます。
借金を残したまま亡くなった絨毯職人の家族から製作途中の絨毯を引取り、それを仕上げたのが彼の最初の作品になりました。
1939年のことです。

セーラフィアン工房の登場 セーラフィアンの登場
レザー・セーラフィアンと作品

続いてレザーは、一貫して自らプロデュースした絨毯を製作。
メヒディ・ハギーギやアブドッラヒーム・シュレシらのデザインも手がけたアフマド・アルチャング(1914~1990年)にデザインを依頼し、天然染料のみによって染めあげられた最高級の素材と緻密な結びによって、類まれな作品を完成させます。
渦巻き状のイスリム(蔓草)が優雅で躍動感あふれるその作品は、絨毯作家としての彼の存在を確固たるものにしました。
初期の作品には銘が入れられていませんでしたが、やがて下方のキリムの部分に「バフテ(織)・イラン・イスファハン・セーラフィアン」と記した銘がイラン国旗とともに織り込まれるようになり、セーラフィアン・ブランドを確立することになります。

セーラフィアンの登場 セーラフィアンの登場
アフマド・アルチャングと作品(画像出典:http://seirafian.blogspot.com/)

レザーには上からモハンマド・アリー、モハンマド、サデク、アフマド、アリー、ホセイン、モハンマド・ハサンの7人の息子たちがいました。
セーラフィアン・ブランドのもとでそれぞれが独自に絨毯製作を行っていましたが、とりわけ次男モハンマドと三男サデクの活躍が顕著です。

現在のグランドマスターであるモハンマド・セーラフィアン(1921年~)は父レザー、兄モハンマド・アリーとともに工房開設当初から絨毯製作に携わりました。

セーラフィアンの登場 セーラフィアンの登場
モハンマド・セーラフィアンと作品

絵画的デザインを得意としたホセイン・モッサバルル・アルモルキに依頼した「ゴロ・ボルボル」(花と小夜鳴鳥)や「シェカールガー」(狩猟)などの名作を残しており、テヘランの絨毯博物館やニアバラン宮殿には彼の作品が収められています。
また、モハンマドが国際連合に寄贈したサーディーの詩を織り込んだ25平米の大作が、ニューヨークの国際連合本部ビルに敷かれています。
晩年の作品には最上部に彼のフルネームが織り込まれ、巷に溢れる偽物への対応策がとられるようになりました。
最近のモハンマドは慈善活動にも積極的で、1000人の学生を擁するモハンマド・セーラフィアン・カレッジを設立した他、「慈悲深き大学建設者会議」の議長として、イスファハン大学の新学部設立にも関わっています。

セーラフィアンの登場 セーラフィアンの登場
ホセイン・モッサバル・アルモルキと「ゴロ・ボルボル」

サデク・セーラフィアン(1922~2005年)は高校を卒業後、絨毯作家となりました。
彼はデザイナーとしても才能があり、代表作「べへシュテ・セーラフィアン」(セーラフィアンの楽園)は彼がホセイン・モッサバル・アルモルキとともにデザインしたもの。
他にも「ロゾ・シャクーフェ」(バラとブロッサム)、「ゴロ・パルバーネ」(花と蝶)など、自身で下絵を描いた作品を残しています。
また、サデクは銘についてもセーラフィアン工房の銘に自身のフルネームを英文字で加えた独自のものを使用していました。

セーラフィアン工房の登場 セーラフィアンの登場
サデク・セーラフィアンと作品

レザーには24人の孫がいるといわれていますが、孫たちの中ではモハンマドの息子のモジュタバ、バーゲル、メヒディ。
アリーの息子のレザー、モハンマド・ホセイン。
サデクの息子のキャリーム、アミール・ナセル、マフムーディ、モハンマド・メヒディが絨毯作家になりました。

孫たちの中ではモハンマド長男、モジュタバ・セーラフィアン(1946年~)の評価が高いように思われます。
彼はレザーの初孫でもあり、幼少期から祖父や父の背を見て育ちました。
モジュタバは高校在学中、16歳で絨毯作家としての活動を開始したといわれます。
イラン国立大学を卒業後、英国ケンブリッジ大学に1年間語学留学。
帰国後、本格的に製作活動に入りました。
アフマド・アルチャングやアクバル・ミナイアンらが遺した未完成の下絵を完成させ、それらをもとに極めて質の高い作品を製作していましたが、最近ではもっぱら一族が製作した絨毯の鑑定に勤しんでいるようです。
なお、モジュタバ、バーゲル、メヒディの作品には父親に倣い彼らのフルネームが織り込まれています。

セーラフィアンの登場
メヒディ・セーラフィアンの銘

※関連記事:ペルシャ絨毯の正しい選び方【最高級のペルシャ絨毯とは?】

バブル景気に沸く日本とペルシャ絨毯

1979年、クムで起こった反政府暴動はイラン全土に広がりイラン革命に発展しました。
モハンマド ・レザー・シャーはエジプトに亡命してパーレヴィー朝が崩壊。
パリから帰国したルーホッラー・ホメイニを最高指導者とし、イランはイスラム国家として共和制に移行します。
米国がモハンマド・レザー・シャーの入国を認めたことからテヘランでは米国大使館占拠事件が発生。
米国はイランと断交し、これにより米国を主要な輸出先としていたケルマンなどの絨毯産地は大きな打撃を受けました。

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イラン革命と米国大使館占拠事件

こうした革命による混乱を好機と捉えた隣国イラクのサダム・フセイン大統領は、シャットル・アラブ川のブビヤン、ワルバ両島を占領します。
これを契機としてイラン・イラク戦争が勃発し、湾岸諸国への革命輸出を恐れる米国などがイラクを支援して8年間にも及ぶ泥沼のような戦争に至るのでした。

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イラン・イラク戦争

そんなイラン・イラク戦争たけなわの1985年(昭和60年)9月、ニューヨークのプラザ・ホテルで開催された先進5か国蔵相会議の結果、急速な円高が進み、円は240円代から僅か2年で120円代にまで高騰。
円高で競争力の落ちた国内の輸出産業や製造業の救済措置として、たび重なる公定歩合引き下げが行われ、また金融市場では為替差損の心配のない国内市場に目が向けられることになりました。
これにより日本国内の株価・地価が上昇、さらに資産の増大が含み益を増大させ、担保価値や資産価値が上昇することで金融機関による融資が膨らみ、バブル景気が起こります。

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ゴッホ作『ひまわり』(損保ジャパン日本興亜美術館蔵)

企業はキャピタルゲイン(所有している資産を売却することで得られる売買差益)を上げることに奔走した結果、一般人をも巻き込んだ「財テク」がブームになり、その対象は株式や土地にとどまらず、高級外車や絵画などの美術品にまで及びました。
1987年、安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)がゴッホの『ひまわり』を史上最高額の約53億円で購入。
翌年には老舗百貨店の三越がピカソの『軽業師と若い道化師』を43億円、更に89年にはリゾート開発の日本オートポリスがピカソの『ピエレットの婚礼』を71億円で購入します。
そうした状況の中、ペルシャ絨毯も投機対象の一つとして定着するに至ったのです。

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『ペルシア五千年美術絨毯』と『燃える秋』

わが国では1970年代半ばに三越がパフラヴィー朝成立50周年を記念し、三井物産とイラン絨毯公社協力のもと1000枚のペルシャ絨毯を直輸入。
1977年に『ペルシア五千年美術絨毯展』を開催するとともに販促映画『燃える秋』を10億円の予算をかけて東宝と合作したほか、テヘラン支店を開設して(イラン革命に伴い閉鎖)本格的にペルシャ絨毯の販売に乗り出していました。
 「バスに乗り遅れるな」と各百貨店は一斉にペルシャ絨毯の販売を始め、イランやトルコからは一攫千金を目論む絨毯商が来日します。
日本人が好むシルク絨毯を製作していたクムでは、日本からのバイヤーの注文により作品にやたらと銘が織り込まれるようになり、またクムから遠く離れたイラン北西部のザンジャンやマラゲでクム産を模したシルク絨毯が製作されるようになりました。

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ザンジャン産とマラゲ産

当時、わが国とイランの間にはビザ相互免除協定があり、またバブル景気の到来がイラン・イラク戦争の停戦と重なったため、実に4万人以上のイラン人が「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見て来日。
上野公園や代々木公園には彼らのコミュニティができあがり、週末には情報を求めて多くのイラン人が集まりました。
彼らの大半は建設業の職に就いていましたが、そのうちまったくの門外漢から絨毯商に転向する者が現れはじめます。
とにかく高ければ高いほど物が売れた時代。
何ヶ月も売れ残っていた商品の値札に0を足して10倍にしてみたところ、たちまち売れたなど、にわかに信じがたい話もあるほどで、ペルシャ絨毯に馴染みのない日本人が相手ゆえ、素人でも商品を調達できさえすれば口先三寸で大きな利益を得ることができたのです。

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イラン人コミュニティー(東京)

やがてバブルは崩壊し日本は先の見えない不況の時代を迎えますが、楽をして稼ぐことに慣れてしまった者たちの意識はそうそう変わるはずがなく、バブル期の商法はそのまま継続され今日に至っていると言えるでしょう。

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